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ソフィアはゆっくりとオーバルに近付いた。彼との距離が近付くにつれて、心臓音も大きくなっていく。
緊張と恥ずかしさで、思った以上に重い足取りになっているが、夫からの疑念は感じられない。むしろソフィアが催眠術にかかっているのだと、今までの動きや発言から、完全に信じ切っている様子だ。
(この一歩を踏み出せば、私の体はオーバル様の胸の中に飛び込む形になってしまう……)
自分よりも大きな体を目の前にし、ソフィアはとうとう覚悟を決めた。
夫に抱きつこうと、最後の一歩を踏み出そうとしたそのとき、突然上半身が温もりに包まれた。背中に回された両腕が、ギュッとソフィアの体を締め付ける。
首筋に埋められた顔から吐き出される呼吸が、肌を撫でていく。
オーバルが先に抱きしめたのだ。
(ふぁあああああ⁉)
ここで悲鳴が出なかったのは、奇跡とも言えるだろう。だが驚きすぎたせいで、一瞬両膝から力が抜け、体勢を崩してしまった。
間一髪のところでオーバルの腰辺りの服を掴み、転倒を防ぐ。
命令外の行動をしてしまい、バレてしまったかと背筋が冷たくなったが、
「……意外と情熱的に抱きついてくるんだな、ソフィアは」
というオーバルの呟きを聞き、ホッと胸を撫で下ろした。
脈が速くなっているのを気付かれないように、深く深く呼吸を繰り返すソフィアだが、そんなささやかな抵抗も、
「……柔らかい」
という囁きによって、いとも簡単に崩されてしまう。
だが、オーバルの言葉はこれだけでは終わらなかった。ギュッとソフィアを抱きしめる腕に力を込めると、不満そうに言葉を吐く。
「だがまだまだ細い。嫁いで来た時より肉はついたが、まだ不安だ。料理長に、ソフィアの食事量をもっと増やすように伝えておくか。細すぎると病気にかかりやすいからな……」
(え? アレクトラ家の食事量は多いなと思っていたけれど……そういう理由⁉)
アレクトラ家に嫁いだ時、自分の前に置かれた料理の量が多すぎて驚いたのだ。
当初は残すことも多く、その度に料理長が不安そうに声をかけてくるため、できる限り頑張って食事を食べていた。
そのせいで最近、結婚前に着ていたドレスのサイズが合わなくなってきて戦々恐々としていたのだが、全て夫の指示だったとは。
ソフィアの体は細いが丈夫だと自負している。今まで大病を患ったことも季節性の病にかかったこともないし、結婚して一年、風邪一つひいていない。
なのに何故、夫はソフィアを太らせようとしているのか。
疑問への回答は、すぐに得られた。
「……それに、今のまま思いっきり抱いたら、ソフィアが壊れてしまいそうで怖いからな……」
はぁっと辛そうにため息を吐き出しながら、オーバルは呟く。まだ何かブツブツ言っているが、夫の言葉は最早ソフィアの耳には届いていなかった。
激しすぎる羞恥が頭の中を支配する。
顔から火が出そうだ。
いや、もう半分ぐらいは出ているんじゃないか。
夫との営みは非常にあっさりしたものだ。さっさと事を終えると、彼は部屋を立ち去る。
次の日に疲労感も残らない。
(まさか、我慢されていたとか聞いてない)
そりゃ言っていないし、という理性からのツッコミをかき消すほどの叫びが、心の中で響く。
顔や耳が熱い。
絶対に感情が顔に出ているはずだ。
一度、クールダウンする必要があるのだが、夫はソフィアを離してくれない。
それどころか、
「ソフィア」
首筋に顔を埋めたまま、オーバルが名を呼ぶ。
恐らく、新たな命令を与えようとしている。
初めの命令は、愛していると言え、だった。
次の命令は、抱きしめろ、だった。
どちらもソフィアにとって、理性が吹き飛んでもおかしく無いほどの試練だった。
もし次、同じような命令だったら――
(今は……もうこれ以上は……どうか、神様!)
ソフィアは神に祈った。
日頃の行いが良かったのか、彼女の祈りは、ドアを叩くノック音という形で叶えられた。
「奥様、今お時間よろしいでしょうか?」
侍女の声に顔を上げたのは、オーバル。
彼はドアの方を見た後、自分の腕の中にいるソフィアを見て、慌てて距離をとった。立ち尽くした状態のソフィアを、信じられない様子で凝視する。
「お、俺は、今まで何を……いつから悪魔の誘惑にのっていたんだ……」
(いや、結構早い段階から、悪魔の誘惑に屈してましたけどね!)
やっと自分の行いの異常さに気づいてくれたようだ。
「ソフィア、椅子に座って待っていてくれ」
ソフィアに命令し、椅子に座ったのを見届けると、彼自らドアを開けた。侍女に部屋の中が見られないようにするためか、体の半分を部屋から出している。
侍女も、まさか主人がここにいるとは思っていなかったようで、出てきた人影に向かって小さく声をあげ、慌てて頭を下げた。
「ご主人様、申し訳ございません! 奥様のお部屋にいらっしゃるとは知らず、大変失礼いたしました!」
「問題ない。こちらの用事が終わり次第、ソフィアを向かわせよう」
「あ、ありがとうございます!」
侍女はオーバルに礼を言うと去っていった。
ドアを閉め、オーバルが深いため息をつく。ソフィアの方を振り向いたが、彼が近づくことはなかった。
変わりに、ソフィアに嬉々として命令していた時とは違う、少し沈んだ声が部屋に響く。
「ソフィア、俺が手を打ったらいつものお前に戻る。いいな?」
どうやら、オーバルの命令はここまでらしい。
ホッとする反面、何故か心がスーッと冷たくなった気がした。
オーバルが両手を肩幅まで開き、手のひらを向かい合わせた。
少し寂しそうな表情が、ソフィアの視界に映る。
どこか苦しそうな表情だった。
まるで葛藤しているような――
「ソフィア、悪かった」
次の瞬間、彼の手が重なった。
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