万年筆の滲み

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『その奇妙な異邦人がこの町に現れるようになったのはつい数か月前だったように思う。 繁華街のある街に出るには日がな一日待たねばならない電車で二時間弱か、のびやかなドライブを三時間程度こなさなければならない、すれ違えば一年ほど前に越してきた私ですら未だにジロジロと眺められる町にあってその異邦人は際立って存在感があった。先に”ように思う”と申し上げたのは、奇妙なことに異邦人がいつ、どうやってはじめて訪れたのかとんと誰も思い出せないからである。 異邦人の奇妙なところは来訪が思い出せないことだけではなかった。日差しの強い日であっても、夏の灼熱に当てられても真っ黒なローブのフードを深々とかぶっていた。さらには、ほんの少し見える肌が浅黒かったり病的なまで白かったり、日によって姿が様々でもあった。それでも同じ人物であると脳が告げていたのは黒いローブのせいだけではない。妖しげな雰囲気、いうなればオーラのようなものを無意識に感じ取っていた。ただ者ではないことは確かだが、気軽な挨拶や不躾な好奇心を決して受け付けない様子もあり、異邦人の出身や名前、性別すらも全く住民――私も含めて――は知らなかった。 異質を撥ね退ける土地の性質が彼(便宜上そう表記する)を認識したのち、そのままおいそれと受け入れるはずはなかった。ただし、拒否感があったのは数週間だけで、住民はなぜか彼を自然と受け入れるようになったのである。丸一年暮らしている私には未だ来客のように応対するのにもかかわらず。私の名誉にもかけて申し上げるが、私は住民たちと交流を図って過ごしてきた。一方で彼が何か言葉を発したり、住民たちの挨拶に返答したりなどという事実は見かける限り一切ない。それだのにはじめは返答がないのに憤慨していた老人ですら穏やかな表情で過ぎ去る彼の後ろ姿を目で追うのである。 一度、あまりに奇妙だったので老人に彼のことを尋ねてみた。彼が誰であるのか、親しげに見送っていたが交流があるのか、などと。いかにも同じく外部者同士仲良くしたがっているように切り出してみたのだが、老人はこう答えたのだ。 「何を。あの方は■■■で■■■■■■だろう。ここで■■をされているんじゃないか。これだから余所者(よそもん)にゃかなわんね」 私には老人が口にした言葉の半分がうまく聞こえなかった。正確には音を言葉として認識しなかったのである。余所者となじられたことにもショックを受け、あいまいに笑い、相槌を打ってすぐに退散した。何かこの土地で恐ろしいことが起きていることだけはわかったのだ。 それから数人に声をかけて調査を試みたが、同じ音を住民たちは発した。まるではじめから彼は町にいて何か大切なことをしているかのような響きであった。そしていずれも、もともと私に敵対心がなかった人であっても、私が余所者であることをなじるような物言いをした。いよいよこの不気味な状況に置かれて味方を喪い、窮してしまった。 住民たちが信用ならないとなると、いよいよ彼自身に声をかけざるを得ないことになった。声をかけたことがないわけではないが、先に述べた通り彼の声すらまだ聴いたことがない。そもそも速足のように先を急ぐものだから声をかけるのも至難の業である。案の定、ようやく彼が歩いているのに出くわしたにもかかわらず彼の横に立つことはかなわなかった。 結局、私は古めかしい探偵か幼児の遊びのようにひっそりこっそり彼の跡を追わざるを得なくなってしまった。止しておけばよいのに、このとき私はなぜか諦めるという考えが浮かばなかった。何が何でも追ってやらねばならないという正義感にも似た強迫観念に支配されていたのである。幸い、彼が後ろを向くことは一切なかったので尾行はすんなり進んだ。 彼が行きついたのは荒地に建っている古ぼけた小屋だった。入り組んだ道々を縫って行っていたから、帰り道を記録するために手帳に簡素な地図を記したり、道筋に目印を作ったりした。小屋に入ってしまって出てくる様子もなかったから、意を決して私は隠れて待とうとした草むらから立ち上がり、小屋の戸を叩いた。ごめんください、すみません、あなたのあとをつけて来てしまいました、といくらか謝罪を織り交ぜて丁寧に交流を試みたが、在室者は出てこなかった。 致し方ない、帰ろうと踵を返したときだった。今思えばもういっそ諦めずに戸を殴っていた方がよかったのだろう、振り返った私の前に立っていたのは真っ黒なローブだった。先ほど小屋に入っていったはずの彼が!わずかに覗く肌は浅黒く、ようやく見えた口がニタリと笑うのが見えたことまでは覚えている。私は目覚めたら小屋に入っていた。しかも、黒いローブを着せられていた。 状況が一切理解できないが、私の青白い肌にローブがまとわりついて奇妙なコントラストを生み出しているのが妙に目についた。先ほどまでのんきに道を記していたこの手帳にとにかく状況を記していかなければ。 ああ!クソ!そういうことだったのか!今”私”は一切合切を理解した!逃げ出さなければ、今すぐに! 何か声が聞こえてきた、奇妙な音だが、次第に声色が変わっていく。私だ。私の声をしている。 そうしてまとっていたローブだったものが黒々と拡がっていくのが今、見えている。声を上げることもできない、しかしかろうじて動く指先でいずれ訪れる”彼”に伝えねばなるまい。私はいまハッキリ理解している。私はこの暗闇に落とされる。許してくれ、私は』 (※黒く、大きな滲みがページの最後を飾っている)
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