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2.夏の星
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五年前、二十歳の大学生の夏、祖父の家に五日間泊まった。
途中から、歳の離れた姉が子どもを連れて来た。親戚に相談があるらしかった。その間、俺に子どもの相手を任せることに決めた様子だった。
何かを頼まれたわけではない。気づけば三日間、子どもが俺の近くにいた。
昔、小学生だった頃、祖父の家にいた黒い仔犬と似ていた。仔犬はどうしてか、滞在中の数日、やたらそばにやって来た。誰もいないリビングで胡座をかいて本を読んでいると、いつの間にか足の間で丸くなって眠っていた。
その仔犬と同じように、十にも満たない子どもが俺の後をついて来た。何も言わずに。小さな麦わら帽子を被って。
仔犬の方は次の夏、祖父の家に行くと俺を忘れていた。薄茶色の成犬になっていて、俺に向かって激しく吠えた。
子どもの方は、その後会うことはなかった。十四の少年になるまで。
○
十三歳の正月休み、母が特売セールで婦人物の財布を買い、おまけで黒色の丸い石のストラップが付いてきたらしかった。「サンドストーン」という、自信だかなんだかが上がる人工石。でも母はデザインが好みではないからと、おれにあげると渡された。
言われて見れば、シンプルで男が持っていてもおかしくない形だった。
石の黒い表面に砂粒みたいな銀色が散らされていて、だから「sand(砂)」なんだな、と思った。
手の中の石を見ていたら、小学二年か三年の夏休み、母に連れられて、ひいじいさんの家に行ったことを思い出した。
遠くまで続く田んぼも、風に揺れてざわざわいう竹林も、大きな木の群れも、光を反射した緑色だった。空が今まで見たよりも濃い青色で、雲もまぶしく白かった。
なにもかもがあざやかで、なんだかどうしたらいいかわからなかった。
白い服の人はいっぱいいたし、薄い黄色とか水色とかピンク色の服の人もいた。けれど、その人ひとりだけが上下とも黒色だった。
だから、あざやかな色の中でも見失わなかった。一番に見つけることができた。
母が、「お母さんの弟」と言った。
その人はおれを見ても、なにも言わなかった。
迷惑そうにするわけでもなかった。
強い陽の光に照らされた緑色の木の下を、砂利道を、草はらの間の土の道を、ズボンのポケットに手を入れずに歩くその人の後を追って歩いた。距離があくとその人は立ち止まっておれが追いつくのを見ていた。追いつくとまた歩き出す。
その繰り返しの中で、手を伸ばして、その空の手をにぎってみたかった。
一度、その人は風通しのいい縁側近くで畳に座って本を読んでいた。近づいても、そばで静かに横になっても気づかれなかった。投げ出すように伸ばされていた片足に少しだけ頭をくっつけて、なんだか安心して、そのまま眠った。
その人が、おれにとっては明るすぎる世界の道しるべになる、ただひとつの黒い星だった。
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子どもと最初に出会った夏、ひと月の間、襟付きの黒色のシャツと黒色のジーンズを身に着けていた。暑さで袖は捲った。喪服の代わりだった。
墓の場所も知らず、手向ける花を置くべき所もなく、黒い服でただあてもなく歩くことしかできなかった。
その中で、小さな麦わら帽子がついて来たあの三日間だけは、冷たい暗夜に光る白い星だった。
歩いていた時に一度だけ手に触れてきた指先のぬくもりと、縁側近くで座って文庫本を読んでいた時、ふと気づけば膝にそっと頭を寄り添って微かな寝息を立てていた、仔犬のような子ども。
あまりに軽く、ささやかな体温が、何年先も心の奥底に残っていた。
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