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6.金糸梅
少年が男の暮らすマンションで過ごすようになってから一週間が過ぎた。
男は少年が思っていたよりも、細かいことにこだわりがないようだった。
初日の夜、一人分の夕食を二回に分けて作っていた。二人分の分量がわからず、面倒になったらしい。少年は母親と二人暮らしだったから、分量はわかる。
次からは、少年が食事を作るか、分量を説明しながら男と一緒に食事を作った。
男の家には、二人で暮らすには足りないものが多かった。どうしても必要なものは買いに行った。
たびたび二人で出かけた。
男の暮らす市は、全体的に道路の幅が広く作られていた。少年にとっては、呼吸がしやすかった。
それでも、自宅や学校のことを考えると、胸の中心に力がぎゅっと集まるのを感じた。
くるしい。呼吸が浅くなる。
みんなとおなじになれない。
ふと隣を見ると男が立ち止まって斜め下に顔を向けていた。
「なに見てるの?」
「金糸梅だ」
「キンシバイ?」
「金色の糸、に、梅。緑色の葉と一緒に、梅の花に似た黄色の花があふれるように次々と咲く。金色の波だ」
男のそばに寄り、深い緑色の葉の群れの中に咲く黄色の花々に目を向ける。今まで、こんなにたくさんの黄色の花が咲いていることに気づかなかった。
いつの間にか呼吸が楽になっている。
男は黙って花を見ていた。
少年も黙っていたが、もう苦しくはなかった。
男が歩き出す。そのあとをついていきながら、尋ねる。
「あの花、好きなの?」
「美しいと思う」
男は時折立ち止まり、道に咲く花を黙って眺めた。少年も花を見た。
白い空木、黄色のバラ、薄桃色の昼顔の花。
男が歩き出すと、先ほどと同じ言葉のやり取りをした。
男の表情は特に変わらず、少年の表情は次第に和らいでいった。
一週間が穏やかに過ぎていく。明日には家に帰る。
少年が使う部屋は、もともと物がない六畳の和室だった。男は「何もしない部屋だ」と言った。
和室からはバルコニーに出ることができた。掃き出し窓を大きく開ければ涼しい風が入る。
風を入れている間、男は窓の横に立ち、少年は両足を抱えて座っていた。二人で黙って窓の外を眺めた。空は薄曇りで、柔らかな陽の光が届く。
「なにもしない部屋におれがいるのって、なんだかおかしいね」
ふと、少年の口の端から小さな笑みが零れた。
男は、今ままで何もしなかった部屋にこの子どもがいるのだと思うと、足りなかった何かがほどよく埋まったような感覚になった。
「おまえがいるくらいでちょうどいい」
男が微笑した。
少年は唇を結んだ。男を見上げる。視線が迷うように一度下がり、再び上がった。
「今の中学を卒業したら、……あと一年、がんばるから……そしたら……ここに住んでもいい……?」
不安から、声がだんだんと小さくなる。顔がうつむいていく。
男は少年のかたわらにあぐらを組んで座った。
「住むのはかまわない」
その迷いない言葉に、少年は顔を上げた。
「だが、俺にはよくわからない。公立中学ならすぐそこにもある。徒歩15分だ。一年待ちたいなら別だが、どこでもいいならそこに通えばいいんじゃないか」
少年は呆けたような表情になった。理解が追いつかない。
「……いつから住んでいいの……?」
かろうじてそれだけ口にできた。
「いつからでも」
少年の抱える思いを男が知っているわけがなかった。男には本当にこだわりがないようだった。大したことではないという口ぶりだった。
「……大ざっぱだ」
少年は泣き笑いになった。
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