星をひとつしか知らない

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星をひとつしか知らない

 一月の半ばを過ぎた冬の空は、時刻は夕方でもすでに日が落ちて暗くなっていた。空気の透き通った冷たさが特に耳に伝わる。  買い物を終えて帰る道を、男と少年が並んで歩いていた。男の方が少年よりも頭一つ半ほど背が高い。今年の春には十五歳になる少年の背丈が平均より低いせいもある。少年はコートのポケットに両手を入れたまま男を見上げた。 「寒いね」 「寒い」  男が短く答える。男は手袋もせず、寒気に両手を晒していても平気そうに見えた。 「寒いの? 真冬生まれだから平気なんだと思ってた」  意外だと少年が言う。 「冬の冷たく澄んだ空気は好きだ。だが寒いと感じるのは別問題だ」  男は表情を変えることもなく淡々と告げる。コートを羽織ってはいるが、なくても困らなそうな気さえする。 「おれは耳が冷たい」  少年には別問題にできそうにない。寒い。  不意に片耳を男の指先で包まれた。驚いて小さく肩が跳ねる。自分の耳とは別の温度の冷たさとほのかなぬくもりが伝わる。 「なに?」 「風避けになるかと思った。耳当ては必要か」 「いらないよ。小さい子どもじゃないんだから」  やや不服そうに少年が言う。男に冗談や嫌味の意図がないことはわかる。それでも時折、幼い子ども扱いをされているような感覚になる。それを退けたい気持ちと跳ねのけ難い気持ちの間で揺れる。だが、耳に触れる指先には冷たさと柔らかな温かさがある。幼い頃に望んだ温度を振り払うことはできない。 「……もう平気だよ」  少年の言葉に、男は指先を離した。ふと空を見上げ、「月の隣に星がある」と言った。表情はさほど変わらなかったが、興味を引かれた声の調子だった。  少年は同じ方向を見る。  真冬の澄み切った南の空高くに、上弦の半月と、そのすぐ左にひときわ明るい白の光があった。 「あれは木星だね」  少年があっさりと答える。男は少年に顔を向けた。 「木星は惑星だろう。金星以外にも肉眼であんなに明るく見えるのか」 「見えるよ。水星、火星、土星も、明るいから見える。水星は太陽に近いから低い空でしか見られないけど。今日と明日は、月が木星に接近する。赤い火星が月のそばに見える日もあるよ」  少年の声は確かなものを手にしたように穏やかだった。 「そうか」  男は頷くと立ち止まり、月と星を見上げてしばらく黙っていた。  何かを美しいと感じるとき、男が沈黙してそれを見続けることを少年は知っていた。だから自分も足を止めて月と星を見つめた。  夜の星は幼い頃から少年の心の拠り所だった。  昼間の人の声はにぎやかすぎて、少年に向けられる目は困惑や負担を映していて、疎ましかった。明るすぎる世界が苦手だった。  夜は静かで、冷えた温度が心地良かった。高温でも遥かに遠い星の光は、柔らかな温度を感じさせた。星を繋いで形作られる星座は、明確な美しい地図のようで落ち着くことができた。  それを誰かと分かち合えたことはない。一人で星に惹かれ続けた。いつか、大人になれば、同じ思いを抱く人たちに会えると思っていた。  男がこちらに顔を向ける。沈黙の時間は終わったらしかった。 「星、知ってる?」  いくらかの期待をこめて、こめすぎないようにして、少年はさりげなく尋ねた。 「俺がわかる星はひとつだけだ。オリオン座。三つ、星が並ぶから。あれだけ見つけられる。何度も眺めた」  真冬の冷気を湛えた夜、見上げればすぐに見つけられた、白い光。重苦しい日でも、凛とした光を目にするたび心が()いだ。男はいつも一人でその星を見た。 「冬の星座だね。あそこに見える。おれも好きだよ」  少年がオリオン座を指差して小さく笑う。男が眺めたのなら、星を美しいと思っていたのだとわかる。それがうれしかった。  少年が示した方へ視線を向けて、表情を変えずに男は言った。 「星を見つけるたびに、おまえを思い出していた」  幼い子どもだった少年は、男にとって夏の三連星(みつらぼし)だった。
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