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『本当に愛している人』
「本当に愛している相手の姿が見える薬」を手に入れたと、夜半前に帰宅した恋人が笑いながら言った。
正確には「飲めば8時間だけ、目の前にいる人間が『自分が本当に愛している人』の姿となって見える薬」だと。
恋人は全く信じていなかった。冗談の種に買える程度には安い値段だったのだろう。
その薬の効果が本物であろうと偽物であろうと、恋人が飲めば目の前にいるのは僕だ。僕たちはお互いに「やっぱり本当に愛しているんだ」と他愛なく笑って、薄紫色のガラス小瓶の中の液体は恋を盛り上げる程度のただの小道具になって、それで終わるはずだ。
僕に気軽な口づけをして恋人は小瓶の中身を飲みほした。
「ただの炭酸水だな。ウイスキーか焼酎買ってくればよかった」
恋人は物足りないといった顔つきになった。とりあえず、まずい味ではなさそうだ。
「酒で割ったら薬の効果が変わるんじゃない?」
薬を本物と信じているみたいにわざと真剣な表情を作りながら僕は返した。
「たしかに」
恋人もふざけてまじめな表情を作る。
作った表情はおたがい長く続けていられなくて、ふきだして笑った。
恋人の目の前にいる僕は僕のままだった。
空の小瓶をベッドサイドテーブルに置くと恋人はベッドの端に腰かけ、立ったままの僕の腕を取って引き寄せようとした。
その動きが途中で止まる。恋人の顔は青ざめ、唇がこまかくふるえていた。
「なんで……どうして……なんで……」
うわごとのように繰り返した。
「おい、どうした?」
僕はわけもわからず恋人の肩を片手でつかんでゆさぶり、呼びかけた。
「なんでおまえが見えるんだ……! おまえはもう4年も前に俺を捨てて……そのあと死んだじゃないか……!」
恋人には僕が僕ではない人に見えているらしかった。恋人の肩はふるえていた。すがるような目で、その人のさらに奥にいる僕へ向けて呼びかけた。
「なあ……俺はほんとに……今はおまえだけが好きなんだ……嘘じゃない……」
恋人は泣いていた。
「それとも俺は……ほんとはあの女を愛しているのか……? もういないのに……?」
恋人は絶望を感じたようだった。だから僕は、顔を寄せて彼に口づけた。
「僕がその人に見えるなら、それでもいいよ。抱いていい」
恋人は泣きながら僕を抱き寄せた。
夜半過ぎ、暗い室内で僕はベッドから起き上がった。隣には恋人が疲れ切って眠っていた。起こさないよう静かに服を着て、ベッドサイドテーブルにおかれていた薄紫色のガラスの小瓶を手にすると隣室のダイニングキッチンへ向かった。
のどがかわいていた。グラスに水を注ぎ、一気に飲みほす。一息つくとグラスをかたづけ、2人掛けソファに深く腰をおろす。
隣には薄紫色の上品なノースリーブのワンピースを着た、栗色の長い髪の女の人が座っていた。
彼女は親しげに微笑んだ。僕が渡したガラスの小瓶を手のひらに乗せていた。
「まちがっていないのにね」
彼女の言っている意味はわかった。
「『本当に愛している人』?」
「そう。あなたもわたしも、あの人の『本当に愛している人』。まちがってない」
彼女はどこか楽しそうだった。
「わたしの魂があなたの中にあるだけ。本質は同じでしょ?」
「あんなに泣かせて」
恋人がうちひしがれて絶望的に泣く姿を見るのは、僕には苦く複雑な気持ちだった。
「あの人の涙はあなたのものになったの。あの人の絶望もあなたのもの。最愛もあなたのもの。まだ足りない?」
微笑みをくずさない彼女の声は軽やかだった。答えはわかっているのだろう。本質は同じだ。
「それでも心苦しいと思うなら、この小瓶は捨ててぜんぶ夢だったことにすればいいんじゃない?」
それは僕も考えてはいた。ため息が出る。
「同じなら、僕の姿で見えたらよかった。なんであなたの姿になったんだろ」
「この薬はわたしが作ったんじゃないからはっきりしないけど。生きている年月の差……?」
一応、考えてはくれていたらしい。どうしようもなかったことだけはわかった。またため息が出る。
「あなたの魂はどれくらい生きてきたのかな」
彼女は立ち上がり、僕の頬に温度のない片手をそえた。
「それはおぼえていないけど、あなたが死んだら、あなたも一緒につれていく。わたしの魂にあなたもまざって、また別のだれかの中に入る。そうして永遠を生きるんじゃない?」
「……僕に拒否権は?」
途方もない話だと思わず渋る僕に、彼女はふふっとおかしそうに笑った。なさそうだった。
「その話でいくと、あなたは別に女性ってわけじゃないよね。今までそうしてきてこれからもそうするんなら」
見送る必要はないとわかっていながら僕は立ち上がった。彼女の手が離れる。
「どちらにもなれるけど、わかりやすい見た目ってわりと使えるから。わたしが男の姿だと、あなた恋しちゃうかもしれないでしょ?」
冗談のつもりで笑いながら彼女の姿は消えた。
自分の中の魂に、本質も同じ相手に恋をするって不毛でしかない気がする。そうじゃない人もいるのかもしれないけれど、僕はまざりあえない人と恋をしていたい。
そしてできれば、あなたとまざりあわずに友だちのように話をしていたい。
そう胸のうちに語りかけて、ソファに寝転がる。
とても眠い。眠って、朝早く起きてガラスの小瓶を外へ捨てに行かないといけない。
夢だったことにしたかった。
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