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【壱ノ陸】
ほこりまみれでかんおけまで置いてある部屋の窓を開いた逸瑠辺さんは、ゆうの方を見て笑った。
「え……ここが」
「うん。ほら、おいでよ」
とん、と軽やかに、彼女は自分の部屋に入って手を伸ばした。部屋の中は奥に行くほどひどくかび臭いし、床は腐っているのか歩くとたわんだ。そして……部屋の中には、かんおけ以外何も無かった。
いや、眼を転じると一つだけ何がある。とんとん、足音を響かせながら部屋の主の女の子はくつのまま上がって、かんおけの上に置いてあったそれを取ってゆうに見せた。ぼろぼろの、赤い服を着た女の子のぬいぐるみは、ボタンで出来た左目が取れている。
「ヨウコソ ベルベッチカノ オウチヘ……ふふ。可愛いでしょ。宝物なんだ……どうかした?」
「その……お母さんとお父さんは?」
「ずっとずっと昔に死んじゃったよ。きみが、生まれるずっと前。今はいない」
逸瑠辺さんはそう言うと、ぬいぐるみを元あったかんおけの上に置いた。
ゆうは、矢継ぎ早に質問を浴びせる。
「ここで寝てるの? この中で?」
「寝ないんだ、私。これは私を納めるただの箱」
「ごはんとかは?」
「食べない。ニンゲンとはちがうんだ」
「……え?」
「違ったね、『まだ』ニンゲンだったね」
ゆうは、言われてる事が理解できない。ニンゲンじゃないというその子は、部屋のいちばん奥、ドアの前で体育座りで扉にもたれた。真っ白のぱんつが見えてしまっているけれど、気にもしていない。部屋の中はとても暗くてきれいな瞳は水色に光っている。
「きみはみんなとは違うよ。私と同じ」
「……なにが、同じなの……?」
「新月を選んだ方。まだ『始祖の力』が完全には目覚めてないだけ」
ぽつ、ぽつとバルコニーに雨がぱらつく音がし始めた。ゆうの中の不安と共に、雨音も大きくなっていく。
「みんなはもうすぐ満月を選ぶ。そしたら私、きみとは会えなくなるからね」
ゆうは今度こそ訳がわからなくなり、がまんできなくなった。
「逸瑠辺さん! さっきから新月とか満月とか、会えなくなるとか! 言ってることが全然……」
すると、とん、三メートル離れたゆうのところまで、座った状態からいっしゅんで飛んだ。そして、マスクのままゆうの耳元でささやいた。
「マスクの下、見たい?」
「え」
「見たいでしょ。わかるんだ、私」
「う、うん……」
「七月六日の土曜日。新月の晩。きみの家にむかえに行くから。その時に、見せてあげる……待っててね。きみは私にのこされた、たったひとりの同胞なのだから」
そう耳打ちすると、二歩下がった。
……
ゆうは、部屋を出た。雨は本降りになっている。とりあえず一階まで降りなくてはならない。バルコニーのツタにしがみついた。四時すぎだ。雨のせいか空は重たく薄暗くて、部屋の中は外から見ると真っ暗だ。不思議なその子はゆうの見えるところまで出て来てくれた。そして、青白い二つの光は、じいっと。ツタにつかまり下りるゆうを見ているのだった。
……
それから、七月六日までの毎日、逸瑠辺さんと帰った。神社をすぎて、山道を上って、抱っこで宙を飛んで。
機動戦士のモビルスーツのプラモを持って行った。薄暗いかんおけだけの部屋の中。ランドセルからそれを出すと、彼女は光る瞳をさらに輝かせた。赤い服のぬいぐるみといっしょに遊んだ。モビルスーツとぬいぐるみはダンスを踊った。ぬいぐるみがモビルスーツの悲劇のヒロインになることもあった。
楽しかった。
家に帰っても、お風呂の時も、おふとんに入った時も。翔と学校に通う時も、あゆみ先生の授業を聞いている時も。ずっとずっと、大好きな女の子のことを想った。お父さんもお母さんもいない、あの子の寂しさに思いをはせた。夜、眠らずに一人でかんおけに座る、彼女のことが脳裏にうかんだ。モビルスーツとぬいぐるみで遊ぶ、嬉しそうな目が頭からはなれない。
そうして、長い長い日にちが過ぎて──もしかしたらあっという間だったのかもしれない──、七月六日がやってきた。
……
「部屋、どこ? ……わかった、そこで待ってて」
令和六年七月六日、土曜日。十一時に迎えに行く。そう言われたから、布団に入り目を見開いて暗い天井を見上げたまま。眠れるはずがなかった。大好きな逸瑠辺さんと、親も知らない深夜に、内緒で会うのだから。
ベランダも下に屋根もない、鳴るはずの無いガラスをこんこんとノックする音がする。布団から飛び起きて、カーテンを開ける。水色の瞳を光らせる少女が、宙に浮かんでいる。
「待たせたね」
「逸瑠辺さん!」
「おいで、ゆうくん」
宙に浮いた愛するその子が、ベランダも手すりもない二階のゆうの部屋の窓からゆうの手をやさしくにぎる。あいかわらず白くてひんやりした手だけど、つかむ力はとてもやさしい。見つめる瞳は、新月の晩でも水色に輝いている。ひょい、とゆうを引っ張って、いつもみたいにお姫様だっこした。
「わっ、もう、言ってよ」
「ふふ。……走るよ」
ぎゅん! 五十メートル走が十一秒もかかるどんくさいゆうと違って、風みたいにものすごいスピードで走った。徒歩で三十分はかかる大祇神社まで、二分とかからなかった。百段ある階段も、一足で飛び降りた。
「ははは。あははは」
そして、とても楽しそうに笑う。とても。たのしそうに。
谷底の大祇神社の境内に着いた。鳥居の横に、白い文字で書かれた赤いノボリが立てられている。
「大祇祭 令和六年七月二十一日(日)」
月明かりはないけれど、星の明かりで洞窟の入り口の真っ赤な本殿がぼんやり浮かび上がる。それを守るかのように、おおかみの像が二体こちらを見ている。どんなに逃げても睨んできて、今にも動き出して食べられてしまいそうで……小さい頃から苦手だった。でもこの子となら、どうしてかこわくない。
新月の夜、満点の星空。うすむらさきの夜空の下、やわらかくほほえんでいる。
「さ、約束だよ。見せてあげる」
おおかみの像が見守る真夜中の神社で。逸瑠辺さんはそう言うと、マスクの右耳のゴムひもをゆっくり外した。
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