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婚約
また来ると言っていたエミール様はやってこなくなった。最初のうちは忙しいのかもしれないと思えた。でもだんだんとやっぱりあの日が最後だったのかもしれないという不安がよぎるようになった。もう彼は来ないんじゃないか、最後に会った時に話したいと言っていたことは何だったんだろう。良くないことなのかもしれない。気持ちは沈む一方だった。
追い打ちをかけるようにまた兄がやってきた。
「お前の婚約が決まった」
なんの前置きもなく兄からそう告げられた。
「婚約?」
「北の外れにある街の辺境伯の元へ嫁げ」
「僕がですか?」
「姉上に来た話だったが、拒絶したからな。まぁ、姉上にはもっと相応しい相手がいるし」
「……」
「でも我が家から誰かが嫁がねばならない。そこでお前に白羽の矢が立ったのだよ。お前なら子も産めるし問題なかろう。まぁ、血筋はあれだがなぁ」
「お断りはできないのですか?」
「断る? そんな事できるわけないだろう。相手は格上だぞ」
だからといって姉上の代わりに嫁ぐなどあってもいいのだろうか。
「僕では不相応です。辺境伯様も困るのではありませんか?」
「そりゃそうだ。お前にはもったいない話だよ」
「それなら」
「つべこべ言うんじゃねえよ。耳障りだ」
殴られるかもしれない。そう思うと怖くなって口をつぐんだ。これ以上反論してもきっと意味はない。
「申し訳……ございません」
「お前の母親みたいに誘惑すればいいじゃないか」
「そんな事……」
「得意だろう?」
母様は誘惑なんてしていない。あの人に無理やり……。でもそんな事を言ったところでこの人の溜飲が下がるわけではない。
「僕が代わりに嫁いだら、もう僕の前には現れませんか?」
「当たり前だ。誰があんな田舎にまで出向くか」
彼の顔が浮かんだ。でもすぐに打ち消した。辺境伯様の元へ嫁ぐ。これが最善なのだ。この人達から離れられるならいいじゃないか。彼とは何もない、ただの友人なのだから。
「分かりました。お受けします」
そう言うと兄はにやりと笑った。その笑顔が不気味だった。
「じゃあ、話は進める。詳細は追って連絡する」
笑いながら兄は出ていった。これでいい。顔の知らない相手の元へ嫁ぐなどこの世界ではよくあることなのだし。それに、遠くなら姿を変えなくても大丈夫かもしれない。
「僕はようやく解放されるのかな」
ネックレスにそっと触れた。最後にちゃんとお別れできるだろうか。この気持ちを胸に秘めたまま。
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