過去

2/3

186人が本棚に入れています
本棚に追加
/80ページ
 紙を頼りに訪れたのは一軒の宿屋だった。ジュール様の名前を出すと住み込みで働かせてもらえることになった。掃除や洗濯など大変だったけれど、みんないい人達ばかりで楽しかった。僕よりも少し前に入ったという人とペアになることが多く、すぐに仲良くなった。彼はとても頼り甲斐がある人で兄のように思っていた。働き始めてからしばらく経った時、誰かにつけられているような視線を感じるようになった。彼に相談して、出かける時はついてきてもらうようにしていた。  ある日、彼が怪我をした。後ろから押されて転んだのだと言う。そして、また別の日にも彼は怪我をした。階段から突き落とされたらしい。幸いにも軽症で済んだのだが心配で仕方がなかった。犯人の姿は見ておらず、不安な日々が続いた。  また彼がひとりで出かけようとした。「心配だから一緒に行く」と言ったけれど、彼は自分よりも僕の身を案じてか同意してくれなかった。それでもやはり心配で、こっそり後をつけることにした。尾行していると、彼と僕の間に男がいる事に気付いた。しばらく様子を見ているとどんどん彼に近づいていく。危険を感じて、男の元へ近づき「何をしているんですか? 」と声をかけた。振り向いた男は僕の顔を見て驚いた表情を浮かべた後に「君がいけないんだ」と言い出した。初めて会う男からそんな事を言われて困惑していると、更に「僕はこんなにも好きなのにどうしてあんな男と付き合っているんだ」と詰られた。「美しい君をずっと見てきたのは僕だ。僕こそが君の恋人に相応しい。そうだろう?」と恍惚した表情で言われて怖くなった。  僕の何が好きなんだろう。話した事もない僕の上辺だけを見てどうして好きだなんて言えるんだろう。「あなたが彼に怪我を負わせたのですか? 」と問うと、薄っすらと笑みを浮かべながら「そうだよ」と答えた。自分のせいで彼は怪我を負った。ショックと恐怖で気がついたら後ずさりしていた。「どこへ行くんだい?」と問う男。「逃げても無駄だよ。僕は君が住んでいる場所を知っているんだから」と言われ血の気が引いた。犯人は目の前にいる。警備隊を呼べばいい。冷静になればそう思うのに、あのときの僕はとにかくこの男から逃げたくて走りだしていた。「またね」そう呟く男の声が今でもはっきりと思い出せる。  無我夢中で足を動かして、宿屋に到着すると、ちょうど彼が帰ってきた。犯人がいた。僕のせいだったと取り乱す僕に落ち着いてと優しく声をかけてくれて、話を聞いてくれた。  またあの男に会うかもしれないと思うと外に出るのが怖くなった。居場所を知られているからもしかしたら来ているかもしれない。そんな考えが頭から離れない。ここにいるのが怖い。  数日後、男が僕を訪ねてやってきた。堂々と正面から。店主に事情を話し、男は警備隊に引き渡された。「絶対に許さない。僕は君の恋人だ。必ずまた君に会いに来るからな」男はそう喚きながら連行されていった。  男がいなくなってからも最後のあの言葉がどうしても引っかかった。本当にまた来るかもしれない。恐怖心はなくなることがなく「ここを辞めようと思う」と彼に話した。彼は「辞めてどうするんだ」と本気で心配してくれた。 「人が少ないところに行こうと思う」 「当てはあるのか?」  首を振ると、「どうしても行くのか? 」と再度詰め寄られた。 「ここにいるのが怖い」 「いい場所がないか聞いてやるからもう少しだけ待ってくれるか?」  それから、程なくして今住んでいる街を見つけてくれた。  母のことを思い出していた。母はきっと父から逃げたのだろうと思った。でも、父は母を見つけ出した。そして、逃げることができなくなっていた。あの男が追ってくる可能性は限りなく0に近いと思う。そう思うのに不安が募った。  彼に不安を吐露すると、姿を変えることはできないのかと言われた。変身魔法は存在する。でも、完全に姿を変えるのは高度で僕には到底扱えない。一部分だけでも変えることができたらなという一言で、昔読んだ魔法書に体を膨らませることができるものがあったのを思い出した。母を驚かせようと思って膨らませた事があったのだ。記憶を探りながら呪文を唱えると体が膨らんだ。それを見た彼が、印象は随分変わるしルシアンだと気づく人はいないと思うと言ってくれた。彼の言葉を受けて、その姿で過ごすことに決めた。それにプラスして目元を前髪で覆うことにした。
/80ページ

最初のコメントを投稿しよう!

186人が本棚に入れています
本棚に追加