礼服

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礼服

 沙織はおもった。  礼服ねぇ。喪服でいいんじゃないの?  沙織が若い頃には結婚式は親族でも両親以外は振袖やフォーマルなワンピースなどで出席したものだ。  その頃には、黒い服というのはお葬式でしか着たことが無い。  我が家はそもそも、お葬式が多かった。  最初は5歳下の従兄弟。高校1年生で15歳で、交通事故で亡くなった。  沙織と沙織の姉は大急ぎで大学から帰省し、まだきちんとした喪服を持っていなかったので、実家の洋品店から礼服を物色した。  洋品店は小さな町の中にあったので、礼服も扱っており、その中からあまりおばさん臭くない礼服を選んできて着た。  その頃はワンピースタイプの上にジャケットのスーツだった。  それ以降も、きっと学生の間に何かあるとしたら実家の方でしかお葬式はないだろうからと、実家のロッカーに、クリーニングをした後、しまっておいた。  その後は実父、父方の祖母と、30代の頃に続けて葬儀があり、その後は母方の祖母が亡くなった。  やはり実家での葬儀ばかりだったので礼服は実家に置いてあって正解だった。  だが年齢が上がるとだんだんそういう訳にもいかなくなってきた。  沙織と沙織の姉が2人ともお世話になったスポーツの監督が亡くなったのだ。  葬儀は諏訪だったので、佐久地方の実家に帰るよりも中央線に乗った方が早い。  姉と時間を打ち合わせ、一緒に行くことにしたが、礼服を送ってもらうには日程が間に合わない。  沙織は初めて自分で礼服を買わなければいけなくなった。  おまけに少し寒くなった時期だったので黒いコートも必要だった。  近くの量販店に入っている礼服を専門に扱っている店で一番安いものを買ったが、結構なお値段がした。  それからは、自宅にも一着持っていなくてはいけない年齢になったのだと、思い、しばらくはその礼服をずっと使っていた。  住んでいた団地で、息子の一級上のダウン症の男の子が亡くなった時にも使った。  実家に寄る時間がなくて、直接法事に行く時にも役に立った。  靴は元々が甲高幅広なので葬儀用の艶なしの少し良い靴を買って履いていた。靴だけはいつ必要になるかわからないので自分で管理して持っていた。  その後、父の弟である叔父の葬儀があった。埼玉だったので近くて助かった。  その頃からか、世間では、学生の就職活動や、子供の入学式も黒の上下を着るようになっていた。  沙織は離婚した後の会社の面接で初めて葬儀以外で黒い服を使った。  買いなおす暇もお金もなかったので、中に着るブラウスだけを替えて、葬儀用の礼服で何度か面接をした。  最初の学生の頃より、サイズが2つほど大きくなっていたが、面接の時には結構きつめになっていたので、礼服と同じ色(墨黒)の丸ゴムのスラックスを履き、ジャケットとして、上着をつかった。  しばらく葬儀もなく、沙織は一時期東京を離れ、実家に帰っていた。  もちろん、礼服などは持って引っ越しをしていたのだが、その間に2件葬儀があった。  最初は1つ下の従兄弟が単身赴任先の福島県で朝方ドアの外に倒れているのが見つかり、死亡が確認されたのだった。  脳内出血で倒れたという事で外傷もなく、事件性もなく病死と言う事だった。  運が悪かったのは、倒れたのが祝日の前の夜だったので、翌朝、出勤の時間に誰かが見つけてくれていれば助かったかもしれないと言う事。祝日だったので、ワンルームのそのマンションで従兄弟を発見してくれた人が通りかかったのは朝の10時を過ぎていたのだ。  従兄弟は埼玉に自宅を購入して、一人娘と奥さんは埼玉に住んでいる。  奥さんは郡山まで遺体を引き取りに行き、一人で亡き夫を連れて埼玉まで帰ったのだという。  沙織は自分の母を連れて埼玉まで行き、葬儀場まで何とかたどりついた。  その時には就職活動をしていた頃のスーツはもう着られなくなっていたので、急遽、また自宅の洋品店の売り物の中から一着貰って行ったのだ。  お通夜と葬儀があるので泊まらないわけにもいかず、葬儀場に2泊して帰宅した。    その葬儀には今の再婚相手も、従兄弟の顔を知らないわけではなかったので東京から来て参加してくれた。  そして、そのまま実家の父親の体調が悪いからと、福島の病院へ駆けつけたのだ。  危篤とか、そう言ったことではなかったのだが、入院は長く、その病院では最後の看取りの部屋になっている部屋に移されたからと、母親から連絡があったから、このまま行ってくる。といい、埼玉から福島に直接向かった。  そして、その夜、義父となるはずだった人は息を引き取った。  誤嚥性肺炎での入院で、痛みに耐えられないので、モルヒネを使っていたという。その日も、息子二人がそろってお見舞いに来てくれたので、夕ご飯をご機嫌よく食べた後、誤嚥していたらしく、痛みを訴えたので、モルヒネを追加投与して亡くなったそうだ。痛くない治療が本人の望みだったので問題にはならなかった。  沙織は一度実家に戻り、まだ再婚していないけれど、葬儀に来てほしいと言われたので、福島まで行くことになった。  それまでにもご挨拶には行っていたので、近しい親族の顔は知っていた。  再婚相手の母方の親戚には多分その時にしか会えないだろうから、(皆、岐阜や静岡で福島までは来ないのだ)再婚相手だと、葬儀の時に紹介するというのだ。  ちょっと、それは常識から外れすぎてはいないかと沙織は言ったのだが、そういう機会でもないと、母方の親戚は集まらないし、みんな気にしないからと言う事で、寒い福島の夫の実家の事を考え、礼服以外も失礼にならない様、黒のセーターやカーディガン。ずっと愛用している丸ゴムの墨黒のスラックスを2本持って、スニーカーも艶消しの黒の物を履いて、礼装用の靴は別にもち、大荷物で福島まで移動した。  黒い服はその頃飼っていた猫の毛が着くのであまり持たないようにしていたが、この時の事でぐんと増えた。  そして、サイズはその時のスーツから更にもう一つ大きくなった。  でも、セーターやカーディガンは伸びるので大丈夫だ。  その後は、一番悲しかった沙織の実母の葬儀だった。  前日に、店の手伝いをするのに実家に帰っていて、東京に戻った日の夜だった。  心臓の大動脈解離ということで、多分本人は分からないうちに亡くなっただろうと、たまたま巡回に来ていた警察の方が教えてくれた。  その日、NTTを騙る変な電話が来たと夕方沙織に実母から連絡があったので、警察に相談しなね。と言ったので、電話をしていたらしい。  老人の一人暮らし世帯と言う事で警察もすぐに2人で訪ねてくれ、その聞き取りの最中に亡くなったのだ。  人がいてくれてよかった。一人で死ななくて良かったと思った。  沙織は前日雪が降っていた3月3日の事を思いながら翌日の4日の夜中に、その時には夫になっていた人の、義父の葬儀の時と同じ格好で実家に向かった。  葬儀にはさすがにきちんと礼服で出たが、長野の中でも寒い地域なので、3月と言えども義父のなくなった時の黒い服がとても役に立った。  すべて実母の見立ててくれた服だった。  それからはコロナ渦になり、葬儀にも出席しなくなったので、法事以外は黒い服は使わなかった。    最後に黒い服を使ったのは、姉の娘。姪の結婚式だった。  中にちょっとおしゃれな白いブラウスを着て、親族席に座った。  2年前の事だった。  ようやく、礼服。という呼び名にふさわしい着方ができた。  それからは、まだ黒い服の出番はない。  普段頻繁に着る服ではないので、自分のサイズが大きくなっている沙織は、急な知らせはやめてほしいと心から思っている。  礼服は生地も伸びないし、着られないとなると、新調しなければいけないからだ。  いざ、着てみたときに、サイズが合わなくて慌てるのはもうこりごりなのだ。 【了】              
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