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「ま、雅美……」
振り向くと男が顔面蒼白で立っていた。子どもはまだわんわん泣いている。
「ったく、使えねえな」
ボソッと吐き捨てると、女は子どもを奪うように抱き上げた。匂いと腕の温もりで母親だとわかるのか、タクトはぴたっと泣き止んだ。女の手が背中を優しくさすり、ゆらゆら揺すられて次第に目を閉じたタクトは、また静かな寝息を立て始めた。鮮やかな手つきに、男二人は馬鹿みたいに突っ立っているだけだった。雅美と呼ばれた女は、ようやく微笑んで僕に詫びた。
「手間かけて悪かった。こいつ、いつも面倒見きれなくて」
「あ、いえ。僕も、ですから」
「アンタはまだ若いんだからしょうがないよ」
思いがけなく優しい声に僕も笑みを返した。
「こいつがシンママのアタシに惚れて、プロポーズなんかするもんだから、じゃあ、タクトの面倒見れたら考えてやるって言ったんだけど」
「雅美。もう一度チャンスくれよ。公園で飛行機ブンブンしてブランコ乗せてさ、やっと寝たんだ。もうちょっとでコツが掴めそうなんだよ。だから頼むよぉ」
男がその格好からは想像もつかない情けない姿で女にすがる。男が切羽詰まってトイレに駆け込んだ理由がわかって、僕は何だか肩の力が抜け、ついお節介を焼いてしまった。
「大丈夫っすよ。この人、ちゃんと頑張ってましたから。トイレ行くんで仕方なく僕に預けていったんです」
男がぽかんとして僕を見ていた。
「いくらあなたのためとは言え、子どもを大切に扱ってくれるなら、いい父親になるんじゃないですか。少なくとも母の連れ子の僕を折檻した男よりは、全然マシですよ」
女はふっと笑って僕の肩をぽんと叩いた。
「アンタも苦労したんだね。わかった。もう一度チャンスやるよ。迷惑かけた詫びは後でこいつに入れさせるから」
「うす」
男も僕に深々と頭を下げた。
あんまりコワモテに懐かれても困るんだが、まあ悪い人じゃないからいいか。
にしても この人がマサミさんかぁ
彼らと入れ違いに店長が帰ってきた。
「おい、大丈夫だったか。今のガラ悪そうな夫婦」
「全然です。トイレ貸して欲しいってだけで」
「こんな真夜中に子ども連れてほっつき歩くなんて、どういう神経してんだ」
ぶつぶつ言いながら、店長はレジ点検を始めた。
早番の仲間内で話題になってる「マサミさん」という女性がいる。夜の仕事をしているらしく、僕は会ったことがなかったが、いつも清楚なメイクと穏やかな物腰で、誰がレジを受け持つか取り合いになるのだという。そういう店長も彼女の大ファンだ。
あの姉御が
マサミさんの本当の姿だと知ったら……
僕は混乱に陥るみんなの姿を思い浮かべて、一人で笑いをこらえながら品出しの作業に戻った。
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