丑の刻の武士

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丑の刻の武士

 「――、……じ、雪治」  若くして剣術の師範となった井上雪治(いのうえゆきじ)は深夜、道場からの帰り道、自分を呼ぶ声を聞いた。声に誘われいつも通る道からひとつ外れて、ろくに街灯もない暗い裏路地を行く。この細い路地の先には神社しかない。声の主は神社にいるのだろうか。だとすれば人でない可能性も高い。警戒心から布に包んだ木刀を手に声の方へと足を進めた。  雪治には昔から、"人ならざるもの"を感じる瞬間があった。聞こえた声もそれだろう、関わるべきでない、とは思いつつも名を呼ばれたとあって気になってしまう。それに、もしも人であれば、いつもこの時間にここを通る自分を知っている誰かが助けを求めている可能性だってある。  「雪治、雪治……」  裏路地を通り抜け、鳥居の前へ出る。ここまでは何もなかった。やはり声は神社からか。やめておくべきだろう、と雪治が踵を返そうとすればそれを引き留めるように再び声がした。今度の声は先程より少しハッキリと聞こえた。やはり人ではなかろうな、と雪治は暫し鳥居を見上げて立ち止まる。人ではなかろうが、嫌な感じもしない。それどころか、なぜだか少し懐かしい。  念のため警戒しておきたいところではあるが、神社は神の領域である。仕方ない、と小さく溜め息を吐き、雪治は布越しの木刀の身を右手で持った。刀は基本的に右手で振るう。つまり、身の部分を右手で持つことで抜刀する気がない、戦う意志がないことを示す。神を怒らせないために必要なことだと先代からもきつく言われていた。  襟元を正し、礼をする。鳥居をくぐる際は真ん中を避け左端を通っていく。鳥居から先の道の真ん中は神の通り道であり、人が通るべきは端である。"人ならざるもの"を感じる雪治は、そうでない人よりは神への礼儀を気にしていた。知りうる限りの礼節を尽くすのは雪治にとって当然だった。  石畳を進む彼の下駄の音が境内に響く。手水で身を清め、拝殿へと参る。賽銭を入れ、鈴緒を上下させて鈴を鳴らす。二礼二拍手一礼。深夜の薄暗い境内に、今度は鈴と拍手の音が響いた。それからまた静寂が訪れる。雪治はそっと目を閉じて微笑む。彼は昔から、この鈴を鳴らすと全身が軽くなり胸のすくような心地がするのが好きだった。  「雪治」  今度は先程よりも更にハッキリと聞こえた。男にも女にも聞こえ、不思議と辺りに響かず雪治の耳にだけ届くその声は、拝殿の向こう側からしているようだ。拝殿の奥、通常の参拝時には立ち入れないそこにあるのは、無論、本殿である。つまりこの声は神のもの。であれば人の定めた"立入禁止"の看板には少々目を瞑ってもらおう。  気を引き締め、厳かな面持ちで本殿へ向かった雪治の目に、朧気に神らしき姿が映る。何の形にも見えず何の形にも見える、白い靄のようなそれだが、目にした途端、雪治は跪いて頭を垂れた。一瞬にして湧き上がった畏怖の心、どうこうしようなどとは考えることさえできない格の違い。本能が神であると認識し、御前で立っていることなどできはしない。  「お前に力を授ける。活かしてみせよ」  神は単刀直入にそれだけ言うと、返事も待たずに姿を消してしまった。雪治は全身が薄く輝きをまとい、その光が体の中に吸収されていくのを見た。と同時に、何か暖かく澄んだものが全身を巡り始めたのを感じる。これが神の言っていた力だろうか。何の力なのかも、使い方もわからないが、古今東西、神の声とはそういうものである。ここから先は自ら考えて動くしかないだろう。とはいえ、活かせと言われたということは応えなければどうなるかわからないのがこの国の神である。ひとまず帰って諸々の検証でもしてみようと、雪治は神社から出た。 ––––  しかし、雪治が鳥居をくぐる瞬間、何か見えない薄い膜のようなものを通り抜けた感覚がしたと思えば、そこには見知った家々がなく、あまりに灯りのない暗闇と、人々の暮らしさえ感じられないほどの静寂が、どこまでも広がっていた。  「どうなってるんだ……」  生まれてこの方、ここまでの暗闇と静寂は経験がない。そしてそこら中から感じる"人ならざるもの"の気配の多さも。神の御前とは違う恐怖を感じ、無意識に木刀を左手に持ち替えた。見られている。人ではない大量の何かが隙をうかがっている。布から木刀の柄の部分を出し、居合の構えをとる。隙を見せてはならないと本能で感じていた。  僅かながら暗闇に目が慣れてきた。少しずつ摺り足で足元を確かめながら歩き出す。その感触と音で、雪治は地面がアスファルトではないことを認識した。整備はされているが土らしき地面、灯りのなさ、音のなさ、"人ならざるもの"の多さ。まるで時を渡ったかのようだ。いやまさか。だが自分は先ほど、まさに人智を超えた体験をしたばかりだ。そのまさかも有り得よう。辺りを警戒しつつ、雪治の頭の中は高速で回転していた。  今にも焦り取り乱したい心を封じ、雪治は努めて冷静になすべきことを考える。何にせよ、ひとまず灯りや夜を越す場所が必要だ。自分の持ち物は着ている練習着の着物と木刀、帯に差している扇子だけ。灯りになるものなどない。充電が尽きてさえなければ充電しっぱなしでスマホを家に置くなどしなかったのに。雪治は独りごつ。  だが過去の自分を呪っても仕方がない。雪治はまた考えた。地面は土だが整備されているからよく人が通る場所だろう。そしてこの場所に来た時から神聖な気配は背後に感じている。同じ神社の目の前、時だけを渡ったと仮定できそうだ。となればここは恐らく参道。以前、近所の老人に昔はあの裏路地も参道だったことは聞いたことがある。つまり、真っすぐ行けば人々の住む区域へと着ける可能性は高い。自らの摺り足の音だけが鼓膜を震わす静けさの中、雪治はゆっくりと歩を進めた。  結論として雪治の読みは当たっていた。数分も歩かぬうちに木造の家々が見えたのだ。気配の方もまだそれなりに多いものの、数も敵意も神社の前ほどではない。おそらく家の隙間から洩れる微かな行灯の薄明かりのおかげで完全な暗闇ではないからだろう。雪治は小さく安堵の息を吐く。  道場帰りだったおかげで着物だし、あまりに時代にそぐわない物も持っていない。見た目で不審がられることはないだろうが、雪治は状況をどう説明しようかと考えあぐねていた。  道は土だが整備されていて、かつこの暗さと静けさ。となると江戸のどこかの時代である可能性が高い、と雪治は推察する。何も罪は犯していないが、この時代の戸籍もなければ旅人の持つ身分証もないため、役人から見れば無宿だろう。幸いこの時代でもあの神社は市中にあったようで、閉ざされているはずの門の内側には入れているようだ。しかしどう見ても深夜の今、宿もやっていないだろうし、そもそもお金も持ち合わせていない。  雪治は途方に暮れたが、そのうち部屋の間取りの関係なのか最も洩れる明かりが強い長屋の隅に座り込んだ。明らかに詰んでいる状況に諦めてしまったのか、心身ともに限界だったのか、そのまま彼は意識を手放す。  だが1時間もしないうちに雪治は目覚めることになった。"人ならざるもの"の悪い気配が強まり、抱えていた木刀を握って臨戦態勢で周囲を警戒する。  「きゃあっ!」  ひとつ先の路地から若い女性の悲鳴が聞こえた。思わず走って向かった雪治の目に飛び込んできたのは、腰を抜かした町娘と、今にも彼女に飛び掛からんとする犬のようなものだった。犬と形容するにはあまりに"人ならざるもの"の気配が強いそれは、雪治には目もくれず町娘に襲いかかった。雪治は咄嗟に間に入り、木刀でその一撃を受ける。  "それ"は一度飛び退いて距離を取り、今度は雪治を狙って飛びかかる。雪治はそれを必死に木刀で防いでいたが、何度目かに防いだ時、"それ"が何か悲鳴のようなものを上げて一層大きく飛び退いた。見れば、木刀にところどころ光の粒子が付着している。その光があの神社で神に授かった力だと、雪治は瞬時に理解した。どうやら神に授かった力は"人ならざるもの"へ対抗するためのもののようだ。  ならば、今は粒子が付いているだけの光を木刀を覆うようにできれば、もっと効果があるのではないか。"それ"が木刀を警戒して間合いを取っているのをいいことに、雪治は力の扱いを試みる。授かった際には暖かく澄んだひとつの力だと思っていたが、こうして全身を巡る力を辿ってみると、その動きは暖かい力と澄んだ力のふたつあるようだ。  目の前に命さえ脅かされる明確な敵がいるからか、どうにも頭が冴えるようだ。どちらの力がどのように全身を巡っているのかも、木刀に滲んでいる光の粒子が澄んだ力の方だということも、その力をどうやって木刀全体に纏わせるかも、雪治はすんなり感覚を掴めてしまった。  木刀全体を光で覆い、正眼の構えで"それ"と見合う。"それ"は木刀を警戒してはいるが、どうやら退く気もなさそうだ。ならば、と雪治は意を決した。小さく息を吐くと、踏み込んで斬りかかる。かわされ右から飛びかかられるが、振り下ろした木刀を瞬時に左へかえして斬り上げる。"それ"は断末魔を上げて消え失せた。  勝った。生きている。そう思った途端、雪治はその場に崩れ落ちた。木刀を抱きかかえ、小さく震える。守られた町娘に言われた礼さえ聞こえないようだ。そう、雪治には生死をかけた実戦経験などない。若き天才剣士と呼ばれることもあれど、それはあくまで剣術である。戦のない時代に生まれた彼が持つ実戦経験など、素人の刃物男の検挙に貢献したことくらいだ。  つまり雪治は怖かったのである。ただ必死で、必要に迫られた結果の冷静さで、なんとか戦うことはできた。しかし、勝った安心感で恐怖に襲われ震え始めた雪治を、町娘がそっと抱きしめる。その温もりにハッとした雪治が顔を上げれば、町娘は彼の手を握って微笑んだ。  「あんたは命の恩人だよ。ありがとう」  彼女の笑みにつられるようにして雪治も小さく微笑んだ。それから町娘はおりんと名乗り、雪治を家へと招待した。聞けば、厠に立った際に外から物音が聞こえたため泥棒か何かだと思って戸を開けたと言う。  「……相手が人でも襲われたらどうするつもりだったんですか」  「そんときはこの簪で目でも突いてやろうと思ってさ」  雪治は"人ならざるもの"に襲われたのにもう明るく笑っている彼女に感心した。それに比べてまだ少し震えている自分が酷く情けなく感じて、雪治は僅かに目を伏せた。  「けどさ、あんたが来なけりゃきっと死んでた……本当にありがとね。あんたがなんでこんな時間にいたのかも、どこの誰なのかも聞かないどくよ。あんたは私の命の恩人の雪治さん。それで充分さね」  物わかりのいいおりんの言葉にありがたく乗っかり、雪治は名前以外を明かさなかった。本当のことを言ったところで信じられないだろうし、自分でもまだわかっていないことが多すぎる。初めての命をかけた実戦による震えは、底抜けに明るいおりんのおかげで徐々に治まっていった。それからおりんの勧めで雪治は彼女の家で眠ることにした。  だが眠りについた雪治は暖かい光に包まれ、おりんの家から姿を消した。 ––––  翌朝、目が覚めたおりんは雪治がいないことに気がつくと、すぐに辺りを探し回った。だが誰に聞いても見ていないと言う。突然現れて"人ならざるもの"――この時代の者たちは大概がそれらを"妖"と呼ぶ――から守ってくれた恩人はいったい何者だったのか。  本人には事情を聞かないと言ったものの、おりんは彼のおかしな点には気がついていた。旅人にしては小綺麗な身なり、どう見ても寝間着ではないそれは丑の刻に外にいたことを示し、戦っている時の綺麗な太刀筋は百戦錬磨の武士のようだったのに、終わってから震える姿はまるで戦ったことがないみたいだった。木刀を包んでいたあの布と紐も、旅人が持つには綺麗すぎた。  厠に立ったのも、妖に襲われたのも、それを助けられたのも、雪治を家に入れて寝かせたのも、すべて夢だったのではないかとも思う。けれど、おりんは夢として片付けることはできなかった。朝起きた時、雪治のためにお茶を淹れた茶碗は厨に置いたままだったし、雪治のために敷いた布団もそのままだったからだ。  おりんは茶屋や宿屋、蕎麦屋なんかにも顔を出して探したが、やはり雪治は来ていないと言う。まさか役人に捕まったかと訪ねてみたが笑われて終わり。雪治がいた痕跡は自分の家の中にしかなく、彼が倒した妖は消え失せたため戦いの跡もなく、本人どころか町には雪治のいた痕跡さえ何もない。  命を救われた礼を何も返せぬまま消えてしまった、とおりんは肩を落とす。突然現れて妖を打ち倒し、その晩のうちにすっかり消えてしまうなんて、彼は神の遣いか何かだったのだろうか。だとしたら、なんて人間らしい遣いだろう。本当に神の遣いかはわからないが、次に誰かが妖に襲われることがあってもまた彼が救いに来て無事で済むように祈っておこう。そう考えたおりんはあの神社に参拝し、どこかへ消えてしまった命の恩人の無事を祈った。  なお、おりんが雪治を探し回った際に深夜の出来事をそこら中で話したことにより、市中で雪治が"丑の刻の武士"として有名になったことを本人が知るのは――少し先の話である。
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