絵麻【1】

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 1時間半後、買い物を楽しんだ絵麻は、外食をするために、再び車の後部座席におさまっていた。 「今日はイタリアンにするわ」 「かしこまりました」  普段はフレンチか中華の多い絵麻だが、今日は気分が違った。降車し、案内を受けて店内へ入る。仕切りはあるが位置が絶妙で、お客同士が互いの存在を忘れるくらいの距離に保たれている。注意深く観察すれば人相くらいはわかるが、声を抑えて会話をすれば聞こえることはない。個室ではないので、開放的な賑わいもある程度楽しめるように設計されていた。  テーブルに着き、メニューを見ていると、微かに聞き覚えのある声がした。メニューから意識が離れ、音に集中する。やはり夫の清澄の声だ。目立たないように自然な仕草で目を動かした。少し離れてはいるが、特徴を知っていれば遠目でもわかる。間違いない。  相手が気づく前に声をかけるべきか一瞬悩んだ。しかし清澄の対面にいる相手を見た瞬間、食事すら止めて、見つからないように店を出る決意をした。  清澄の対面に、義姉の清香(さやか)の姿があった。絵麻にとって、この世で最も苦手な人物だった。できれば二度と顔を合わせたくない、と願うくらい苦手だった。数日ぶりに夫の存在を感知したと思えば、清香も一緒だとは。  確かに会社から近い場所にあり、清澄はイタリアンが好きだ。二人が仲の良い姉弟で、清香も清澄と共に役員をしていることを考えれば、遭遇する可能性は高いと言えるだろう。 タイミングが悪いと言うのか、予想して避けておくべきだったか。どちらにせよ、鉢合わせることだけは避けなくてなならない。  逃げよう。
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