早苗【10】

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早苗【10】

 早苗はしばらく周りを認識できなかった。自分はどこにいて、何をしているのか判然としない。五感に霞がかかったような感覚で、頭も働かずぼんやりとしている。  上には綺麗な水色、下には目が覚めるような緑色が見えた。見えたと認識したときに、すぐにそれらが青空と草原だということに気がついた。それと同時に足の下の草の感触も感知した。顔に風の圧力を感じ、人工的ではない草の匂いも感じとった。  早苗はここを知っていた。視線を上げると正面に白い石造りの塔が見えた。あそこは馴染みの深い、自分の住居である館だと瞬時に思い出した。  そうだ、朝の散歩に来ていたのだった。一つを認識すると数珠つなぎに次々と思い出した。思い出したという感覚が可笑しい。なぜか久しく来ていなかったような感覚があったが、その感覚は残像のように霧散した。  どこか遠いところへ意識だけが旅をしていたとでもいうのか。自分の足でここまで散歩をしてきた記憶は地続きであるのに、夢でも見ていたような感覚を覚えた自分が可笑しい。  早苗は自分にしかわからない程度に笑みを漏らすと、散歩を再開した。  日課である散歩コースを30分ほどかけて歩いた。館まで戻ると家庭教室のカミーユが玄関口で出迎えた。 「サンドリーヌ様、お時間が5分ほど過ぎております」 「あっ、ごめんなさい!」  近くにも、自分の身にも時計がないことを知りながらも、キョロキョロと探す仕草をしながら謝罪した。
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