早苗【11】

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 心ここにあらずといった虚ろな表情で、視線だけはダンスを続ける伯爵とミス・ヴァロワを追っていた早苗は、声をかけられていたことに気がつかなかった。  3度目の呼びかけにようやく反応し、意識を目の前にいる紳士に向けると、2メートルほどの距離に立ち、左手を上に向けて早苗の方へ差し出していた。  視線が合うと紳士はニッコリと笑顔を見せた。 「ミス・カンブルラン、私と踊っていただけますか?」  早苗は驚いた。 「生田さん……」  目の前の男性が運転する車の助手席に座っていたこと、一緒に他愛もない会話をしたこと、仕事中にすれ違うとき目配せをし合ったこと、抱き締められたこと、息がかかるほど近くに接近したことなどが、早苗の中に駆け巡った。 「イクタサン? ミス・カンブルラン、お加減でも悪いのですか?」 「サンドリーヌ、ベルタン侯爵だよ」  父が娘を促すように言う。 「あ、はい!」  早苗は慌ててベルタン侯爵の手を取って立ち上がると、膝を曲げてお辞儀をし、ダンスを承諾した。  ベルタン侯爵はサンドリーヌを気遣いながら、色々と言葉をかけてくれたが、早苗は侯爵の顔をまじまじと観察していて相槌は適当になってしまう。  初対面のはずなのに、侯爵と何度もお会いしたような気がするわ。  見たことのない建物や乗り物がある世界で、侯爵と一緒に過ごしたシーンの断片が、早苗の中で何度も再生された。夢で見たのだろうか。シーンの断片を反芻しようとしても、認識する前に霞のように消えてしまう。思い出せそうで思い出せない、  記憶を辿ることに意識を取られていた早苗は、ダンスに集中することができないでいた。
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