早苗【1】

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「行ってらっしゃい!」  早苗は精一杯笑顔を作り、元気に聞こえるように声を振り絞った。 「図書館行くんだっけ? 寄り道はするなよ」  智也は、早苗に目も合わせずにそう言うと、扉を閉めて出ていった。  扉が閉まったあとも、靴音が聞こえなくなるまで耳を澄ませ、表情を変えないまま、扉の前に立っていた。前に何度か、忘れ物があると言って戻ってきたことがある。その時に気を抜いていて、怒鳴られたことが2回。怒鳴られたあとは丸一日憂鬱になる。普段よりも智也の機嫌は悪くなり、昔のことまで引っ張り出してネチネチと絡んでくるのが面倒だし、怖いからだ。  早苗は簡単に家事を終わらせ、隠していた小型タブレットを取り出した。早苗は身体の力が抜け、気分が良くなったことを自覚して、智也のいない時間を心待ちにしている自分に気がついた。  ツイキャスのアプリを開き、ラジオ配信ボタンを押す。  早苗は1か月前に、こつこつと貯めていた小銭を集めて中古の小型タブレットを購入した。智也にバレないようにお金を貯めることもそうだが、断りもなく買い物をすることも、結婚してから初めてのことだった。何度も躊躇したが、いざ行動してみると想像以上にあっけないことだった。  Xやインスタなど様々なSNSに登録をした。その中でも特にツイキャスが楽しい。文字を打つより手軽だし、一人でダラダラと話していても、たまに共感してくれた誰かがメッセージやコメントで反応を返してくれる、そのシステムにハマった。社会と微弱ながらも繋がっているように感じられて嬉しかった。  喋る内容は他愛もないもので、読んで面白かった本についてや、料理の出来不出来、天気の話など、他人の興味を惹くものは何もなかったが、それでも同じように孤独を感じている人なのか、常連のようなユーザーが数人いて、ごくたまにコメントをくれていた。
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