短冊

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 スーパーでのパート終了後、保育園に五歳になる一人息子を迎えに行くと「ママ!」と裕太(ゆうた)は駆けてくる。芳美は膝を落とし両手を広げ、胸に飛び込む我が子を抱き止めた。柔らかな黒髪を撫でるとフワッと汗の匂いが鼻腔に流れ込む。元気に走り回り友達と遊んだのだろう。芳美は息子の額にコツンッと自分の額を合わせた。 「裕太、今日もいい子にしてた?」 「うん、僕、いい子だったよ」 「お友達とたくさん遊んだ?」 「うん、遊んだよ」  担任の女性保育士が笑顔で裕太に話しかける。 「今日は皆んなで短冊にお願いごとを書いたんだよね」 芳美は保育士に顔を上げた。 「短冊?そういえば来週の月曜日は七夕でしたね」 「はい、来週、笹の枝に皆んなのお願いを書いた短冊を吊るすんですよ。裕太君はどんなお願いを書いたんだろ?」  保育士に振り返りアッカンベーをする裕太。 「内緒だよーだ!言ったらお願いが叶わないもん」 「こら、先生にそんなことしたらダメよ」 芳美は立ち上がり息子の手を引いた。 「さ、おウチに帰ろう」  西陽が町をオレンジに染め、歩道に伸びたデコボコの影が仲良く並ぶ。  裕太の小さな手を握り(七夕かぁ〜)芳美は遠い昔に心を馳せていた。最後の短冊を書いたのは十五年前、病院の個室だったっけ。 ーーーー 『なんて書いたの?』  芳美が聞くと、ベッド上の彼、雛川(ひなかわ)キリトは慌てて枕の裏に短冊を隠した。 『内緒、言ったら願いが叶わなくなるから』  キリトとの出会いは高校の入学式。同じクラスで席も隣同士だった芳美と彼は自然と仲良くなり、友達になり、高二からキリトは芳美の初めての彼氏になった。  町の七夕祭りで笹の枝に短冊を吊るすのが二人の恒例。でも、キリトは自分の願いを芳美に見られるのを酷く嫌がり一度も教えてくれたことがない。なぜなら、願いごとを見られたら叶わなくなると固く信じていたからだ。  キリトが難病になったのは芳美が大学二年の時だった。キリトの母親は「後、半年って余命宣告されたの」そう言って病院の非常階段で声を殺して泣いた。それは芳美も同じこと、泣いて泣いて涙が枯れるほど泣き崩れた。  この世に神はいない。七夕など人間が作った偽りの神話。だから短冊に願いを書いても叶うわけはない。だが、知りつつも最後の七夕の日、芳美は短冊に願いを書いた。 【どうかキリトが元気になりますように】 『芳美は?なんて書いたの?』  キリトはそう聞いたが芳美は教えなかった。どうしても、この願いだけは叶えて欲しかったからだ。すると、キリトはこう言った。 『僕が毎年、短冊に何を書いたか教えてあげる』 『え?教えてくれるの?』 『うん、もう叶った願いだからいいよ』  十七歳、キリトは短冊にこう書いた。 【芳美と手を繋げますように】 十八歳【芳美とキスできますように】 十九歳【芳美と朝を迎えることができますように】 『あはっ』 芳美は笑った。 『本当に全部叶ってる』 窓からの緩い日差しがキリトの痩せ細った身体を白く淡くした。 『そうだよ。だから最後の僕の願いは芳美には教えない。絶対に叶えたいから』 ーーーー (キリトは最後、短冊になんて書いたんだろうか?)  葬儀の後、芳美はキリトの母親に短冊のことを聞いたが母親は知らないと首を振るばかり。今も芳美はキリトの最後の願いを知らないままだ。 「ただいま」の声と灯された照明で回想から現実に引き戻される芳美。壁の時計を見上げると十九時を回っている。芳美の夫、孝之(たかゆき)はネクタイを緩めながら首を傾げた。 「どうしたの?電気もつけずにボ〜ッとして」 「ごめんなさい。すぐに夕食の支度をします」  裕太はリビングのソファーに座りゲームをしている。 「慌てなくて良いよ」 孝之は背広をソファーに投げてワイシャツ姿になると裕太を高く抱き上げる。 「裕太、パパに『お帰り』ぐらい言ってくれよ」 裕太は無表情で呟くように言った。 「ゲームしたいから下ろして」  キリトが亡くなってから芳美の世界は暗闇に閉ざされた。キリトの後を追って死にたいと考える毎日。そんな芳美を救ってくれたのが夫である孝之だ。孝之は真面目で温厚な人。家庭を大切にしてくれる。夫と子供、この二人が芳美にとっては命より大切な宝物。  だが、そんな幸せは脆くも崩れ去ることになる。一か月後、不慮の事故により孝之が他界したのだ。葬儀の晩、泣き崩れる芳美に裕太が言った。 「ママ、安心して。これからは僕がママを守るよ」 「裕太」  芳美は裕太を強く抱きしめた。泣いてはいけない。これからは裕太と二人で強く生きようと誓ったのだ。  そんなある日、実家の母から芳美に連絡があった。突然、キリトの母が訪ねてきたと言う。彼の母はこう言った。 『やっと気持ちが落ち着き、息子の遺品を整理してたらこんなモノが出てきたんです』  それは白く細長い紙で先端にヒモがついているそうだ。それを聞いた芳美は「あっ!」と声をあげた。「まさか、短冊……」 「短冊って七夕の?」 「そう、七夕の日、キリトと短冊に願いを書いて病院のロビーに飾ってあった笹の枝に吊るしたの。その短冊よ」  きっと彼は、枝から短冊を外したのだ。そう思った。スマホを右手に持ち替える芳美。 「短冊にはなんて書いてあるの?」 「それが、気味悪くて……」 「教えて」 「芳美の子供に生まれ変わりますようにって書いてある」 「私の子供?」  ああ……まさか、まさかね。ゲームに夢中になる息子の背中が黒く歪んで見える。  次の日、少し早めに保育園に行くと、芳美は園長に七夕祭りの短冊のことを聞いた。答える園長。 「ああ、七夕祭りの笹なら物置にまだ保管してありますよ」 「短冊は?」 「園児の書いた短冊はつけたままです」  園長に許可を得て物置に入ると、芳美は笹の枝に下げられた短冊を一枚いちまい確認し、とうとう祐介の短冊を見つけた。  子供とは思えない字で短冊にはこう書かれていた。 【パパが早く死にますように】  足の力が抜けてくの字に曲がる。ダンッと音をたてて膝がつき尻が床に落ちた。暫くその場を動くことができない芳美。  刹那、背後に伸びた黒い影。影は高い声で言った。 「ママ、おウチに帰ろう」  振り向かなくても分かる。息子の裕太だ。だけど……。  背中に悪寒が走る。戦慄が恐ろしいスピードで身体を支配し足の小指一本でさえ動かない。  暫くの沈黙の後、背後から低い声がした。 「本気で念じて書けば、天の川は願いを叶えてくれるんだよ、芳美」  十年後、四十五歳になった芳美は鏡を拳で殴り老いた自分を粉々に砕いた。  最近、十五歳になった息子、いえ愛するキリトは自分を『ババア』と呼ぶ。彼はもう七夕などに興味はない。  仄暗い沼の底から浮上する真っ黒な感情。  今日は町の七夕祭り。芳美は必死な願いを短冊に書き笹の枝に吊るした。  なにを願ったのか、それは秘密。教えてしまったら天の川に願いが届かないからだ。  一か月後、キリトの彼女が原因不明の自殺で他界した。泣いているキリトに背を向けニヤリと笑む芳美。  彼女はこの先も短冊に願いを書き続けるだろう。  芳美、七十八歳。癌により余命宣告を受けた彼女は、短冊に最後の願いを書き記し病院のロビーに設置された笹の枝に吊るした。  何度も恋人を失い未だ結婚できずにいるキリトへの切なる願い。それは……。  芳美がこの世を去ってから一か月後、キリトは運転操作を誤り、崖から転落死することになる。  七夕の日、夜空に輝く光の帯。  二人は天の川で永遠に結ばれたのだろうか?それは秘密。永遠なる謎だ。        
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