センターキューブ

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◇◇◇◇◇◇ “こんな可愛い二十八歳見たことない” “てかキスシーンの相手の人うらやま あんな近くでケースケの毛穴見れるなんて”  SNSで次々と、好きなアイドルへの想いを語る。  昼間は初夏の様相だが、斜陽と共に人々の足を潜り抜ける風が、変わりきっていない季節を思い出させる。自販機の下すらも照らす程の角度で入り込む西日も、私の並ぶ列までは届いてこない。黄色い点字ブロックの内側で、大人しく私たちは並んでいる。電車を待ちながらも、指は忙しい。好きなアイドルへの愛をつらつらと、徒然なるままに重ねるアカウントを切り替えた後は、学生時代の友達をフォローしあっているアカウントで仕事の愚痴を漏らす。しかし悪態を付きすぎるのは良くない。締めはユーモラスに、後味は軽さを含ませたものが良い。今後の友人関係に亀裂は不要だ。さらに顔を変え、日頃の毒を吐く、憂さ晴らし用のアカウントを開く。 “上司の説明長すぎ 聞いたことだけ答えれば良いのに余分なことも話しやがって 終いには昼ご飯の話までして” “友達ごっこをいつまで続ける気? もう社会人 いつまで学生気分なんだよマジで” “まぁ今日は親友と飲み行くからオールオッケー”  このアカウントには鍵をかけており、私がフォローした人しか見られなくした。フォローしている人は0、つまり私しか見られない。どこにも出せない、黒くうねる感情を全部ここに吐き出している。スマホの右上に表示された時間を見る。一六時四十分。もうすぐ電車が—— 「ただいま西城駅にて人身事故が発生しており、電車を緊急停止しております。再運行の見込みはまだ——」頭上から鳴り渡るアナウンス。 “は? なんで? ”脳からのシグナルが直接指を動かす。 ◆◆◆◆◆◆ “もうさよなら。ここにいる意味なんて無い。何もかもうまくいかない、私だけが取り残されてる。毎日毎日同じ日。私はこんな仕事をするために就活頑張ったんじゃない。もっと明るい仕事がしたかった。こんな人生、さっさと終わらせてやる。”         投稿ボタンに指を持っていく。 「間もなく急行が通過します。黄色い線までお下がりください。この急行は当駅には停まりません——」アナウンスが聞こえた。使い古したスニーカー。紐も底も茶色に汚れている。元の色なんか忘れてしまった。頭を下に向け、靴ではないどこかを虚ろに捉えながら、目を閉じて一歩前に出る。点字ブロックの感触が薄くなった靴底から足裏へと伝わる。踏み出す先が、こんなにも暗く、危うく、怖いことなんてなかった。  ビュッと風が吹く。 ◇◇◇◇◇◇ “電車来ないんだけど 最悪”  友人に見せているアカウントに切り替えて投稿する。アナウンスはされているが、それをかき消す程の混乱と嘆きが、至る所で聞こえる。人の無い場所を見つけて電話をしている人。スマホとにらめっこしている人。呆然と時刻表を見ている人。急いで乗り換えようと改札へ向かう人。  今日飲みに行く予定の親友にも急いで連絡を入れる。不幸中の幸いか、親友の家の近くで飲む予定だったので、親友はまだ外に出ていなかった。お店の予約変更は親友が行ってくれるらしい。感謝のメッセージを送るも、運行再開の知らせはまだ伝えられない。もしかしたら今日は会えないかも知れない。午前中のネイルサロンと美容院でウキウキだった自分にこの残酷な未来は知らせたくはない。  遠くで何が起きたかはわからないが、私のせっかくの予定を台無しにされたことだけは確かだ。 ◆◆◆◆◆◆  いつからかずっと考えていること。思考の始まりは、半年前か一ヵ月前か昨日か。  地下鉄を降り、改札へ向かう。反響する風の音、線路と車輪が重なり合うキリキリとした重く冷たい音、アナウンスの甲高い音、鈍い足音、その全てが耳の中で混ざり合って脳に残る。また今日も耳鳴り。病院に行くべきだが、上司がそれを許す筈なんてない。今日もまた顧客の会社に入って、システム管理の仕事のためにパソコンとにらめっこの作業。  もうすぐ会社が近づく。腹痛。耳の中で電車の音が反響する。それは次第に大きくなって脳味噌を囲い込む。ここで私が休んだとて、怒られることはあれど、仕事が止まることはない。優秀なメンバが次から次へとタスクをこなしていく。  私が選んだ道は本当に正しかったんだろうか。私がここで働く意味なんて。今日は昨日の続き、とは言い得て妙だ。いつかこの連鎖を止めたい、止めてしまいたい。そんなこと、毎朝思うこと。  電車の立てる音はずっと聞こえている。 ◇◇◇◇◇◇ 「あ」と誰かが発した音と同時に、何か固いものが床に落ちる。私の少し前に、まだらのルービックキューブが転がってきた。私は気怠げにそれを拾うと、前に居た男性がお礼を言いながら手を伸ばす。 「どうぞ」小さく呟いた私は、持ち主の顔を見る。今度はこちらが「あ」と言いそうになった。マスクをしていたその男性は、髪型と目元が、ケースケにそっくりだった。パーマをかけたうねる黒髪と横に伸びる綺麗な一重。画面越しにいつも見ているものだった。  彼は礼を言うなり、スタスタと去っていった。厚底の靴、黒い服。ケースケが以前ラジオで話していたお気に入りの私腹とは全然違う。それに声もケースケとは少し違っているような気がした。それもそうか、と心の中で呟く。そもそも売れっ子アイドルが電車に乗って移動なんて考えられない。しかし例え他人の空似だったとしても、ほんの少しだけ足は軽くなった。 ◆◆◆◆◆◆  ビュッと風が吹いた。  目の前を赤色の急行が通り過ぎる。あの電車に体当たりして、今頃肉片として宙を舞っているはずだった。意識を体に戻して現状を理解してみる。腕を後ろに引っ張られている。振り向くと男性が、私をじっと見つめている。マスク越しの表情から読み取れるのは、同情でも怒りでもない、寂しさだった。 「倒れそうでしたよ。もしかしたら貧血かも知れません。どこかで休まれた方が良いかと」と、彼は少し大きな声で言った。何を言っているのかわからないまま、男性に連れられてベンチに座る。男性が自販機で水を買ってくれている間、周りの目線に気が付いた。さっきの男性の言葉は、好奇の目への言い訳だったのだと、ようやく納得した。  私は水を、男性はお茶を飲みながらベンチで話す。先ほどこちらを見ていた人らも目的の電車が来ると何事も無かったかのように、吸い込まれていった。私たちの一件を知っている人はこれでかなり少なくなった。もう誰もベンチに座る二人を気にすることはない。 「あの、その……すみません」お茶を飲む彼に向けて謝った。綺麗な横顔、と思った矢先、彼はマスクをした。 「いいえ、その水は奢りますよ」 「いえ、水のことじゃなくて……」 「さっきのホームでのことですか?」 「はい、ホームでの……」 「それならこっちこそ、申し訳ないです。あなたの、その……計画を邪魔してしまって」目を見てまっすぐに謝る彼のせいで、私は居心地が悪くなった。世間的に見れば正しいのは、彼の方だ。 「謝る方は私の方です。せっかくの時間を取らせてしまって……」 「誰に会う訳でもなく、ただブラブラするつもりだったので心配なさらず」雑味な感情が含まれていない、薫風のような口調に、自然とこちらも穏やかになる。 「僕も昔、誰かに助けてもらいたかったんですよね」私にしか聞こえないような声で彼は言う。私たちはベンチに並んで座り、移り変わる人の流れを見ている。誰一人として同じ動きはしていない。 「そんな時って誰にでもあるじゃないですか。ただ話を聞いてくれる人がいるだけでも、少し安心するような気がして。もちろん、僕があなたの助けになっている、なんて思ってないですけど」彼は少し間を置いた。そして息を吸い込む。 「それでも少しは、そうなりたいなって。まぁ相談って接点が一切無い人の方が、しやすい時ありますよね」彼は優しい目をして、こちらを見る。見られているのは、あの時の自分かも知れない。逃げ出したくても、怖くて、やめられなかった、あの日の自分。 「私はもう、やめたかったんです。何もかも。明日からもまた同じ日が続くなんて……」改札を抜けた風景が、すぐそこにある。床だけが嫌に鮮明だった。 「でも、本当は怖かった……。もしあなたが居なくても、私は生きていたのかもしれません」少しして、私は気づいた。 「ごめんなさい。せっかく助けてもらったのに」文字通り命の恩人に、なんて失礼なことを言ってしまったんだ、と。 「それもそれで良いと思いますよ」彼は笑ってお茶を飲む。続きを何か話すかと思ったが、何も言わず、ただ前を見ていた。  久しぶりに見た青空。明日の天気なんて知らない。 「みんな死ぬまで生きてしまうんです」こもった空気に流れる彼の声。 「って当たり前のことなんですけどね」少し高い声で、誤魔化すように付け足した。 「……いえ、ありがとうございます」少しだけ、胸の闇が晴れた。そんな気がした。  私たちの静寂を切り裂く、三宮丸行きの轟音。 「僕らに何が起きてても、いつも通り来るんですね。皮肉なもんです。これは確かに、止めたくなりますね」何に対して放ったのかわからない言葉を残して、彼は立ち上がる。 「あの……ありがとうございました」私も急いで立ち上がり、彼に向けまっすぐ声を投げる。 「久しぶりに自販機で買うのも悪くないですね」そう言った彼は車内の人混みで見えなくなっていく。  私の耳に確かに残るその声は、遠く彼方に飛んでいく。明日に流れる雲のように。
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