最終章 星空の約束

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最終章 星空の約束

 黄昏時から車座となり、人情味ある皆と酒を酌み交わしたひとときは、総理としての責務を忘れさせるほど心地よいものだった。時間の流れを忘れ、ホテルへの帰路が遅れ、警護のふたりには迷惑をかけてしまった。  居酒屋を切り盛りする女将の母と板前を任される父は、温かな笑顔で見送ってくれた。「広島にまた来た際は、是非とも娘と一緒に立ち寄ってつかぁさい」と。  暖簾をくぐり店を後にすると、満天の星が空を埋め尽くし、僕たちの未来を照らすかのように輝いていた。街の灯りがひとつまたふたつと消えていく中で、彼女との別れが刻一刻と近づいていることを感じた。  舞子は何かを言いたげに、僕の次の言葉を待つかのように微笑んでいた。その微笑みは、言葉にはできないけれども心で感じる僕たちの物語を静かに語っていた。  そして、舞子は名残惜しげに微笑みながら、今夜の出会いを永遠の記憶に留めたいという願いを込めて、優しく言葉をかけてきた。彼女の声には、別れを惜しむ温もりが滲み出ており、その瞳は未来への期待で輝いていた。  僕の心は、彼女の言葉によって揺さぶられ、別れの瞬間が近づくことへの寂しさと、再会への希望が交錯した。 「西園寺さん、今夜泊まるホテルまで、ご一緒してもよろしいですか?」  舞子が震える声で先に言葉を紡いだ。  その瞬間、僕は彼女への感謝と、自らの言葉を見つけられなかったもどかしさで胸が締め付けられた。彼女の勇気に心からの敬意を表しつつも、自分がその一歩を踏み出せなかったことに、静かな自責の念を感じていた。  僕たちの関係には、一朝一夕には越えられない立場の違いや年齢の隔たりという障害があるのは事実だ。総理と新聞記者、中年の男性とアラサーの女性。僕らは仕事に追われる日々の中でも、互いに深く思いやる一方で、複雑な感情を抱いていたはず。  それは、僕の総理という立場からこれまで言葉にすることができず、公にすることが許されないものだった。  しかし、今夜、僕たちは黙ったままで道を歩き、熱い視線を交わすたびに、言葉を通じなくても互いの心が通じ合っていることを感じていた。  街の灯りが遠ざかるにつれ、舞子の手のぬくもりが僕自身の不安を和らげ、総理としての重圧から解放される瞬間だった。彼女もまた、指先でそっと僕の手を握り返すことで、同じ想いを共有していることを伝えていた。 「舞子さん、今夜は本当にありがとう。貴女とこれまで過ごした時間は、僕にとってかけがえのないものです」  僕はそっと言葉を紡いだ。彼女は僕の言葉にうなずき、優しく答えた。 「西園寺さん、私も同じ気持ちです。今夜は忘れられない思い出になりました。そして、初めて出会った三年前からも……」  彼女はそう口にした。その瞳には涙が光っていた。しかし、今夜だけは、僕らを苦しめていた障害も意味をなさないように思えた。僕たちは、星空の下で手を取り合い、未来への一歩を踏み出した。  再び手を取り合って、夜空に煌びやかに浮かび上がる星を見上げた。星々の瞬きが、僕たちの未来が明るく輝いていることを示していた。それは、言葉に言い尽くせない美しさだった。  広島から東京にかけて、光り輝く虹の架け橋が見える錯覚に陥った。その架け橋が全国に広がり、人々を結びつけることを心から願った。  時間が過ぎていくのを惜しみながら、ゆったりとふたりで歩き始めた。舞子は無意識のうちに、僕を両親に紹介したのだろうか。彼女はそう言っていたが、僕はその言葉の裏に別の意図を感じていた。  舞子の瞳は、僕に対する確かな期待と、心からのメッセージを伝えたいという切なさで潤んでいた。彼女の視線は、ただの気晴らしを超えた、もっと深い絆を求めているように感じられた。僕はその視線を受け止め、彼女が何を伝えたいのか、その大切な何かを理解しようと心を寄せた。  ホテルへの道すがらは静かで、警護の男たちの存在も遠くに感じられた。僕たちの間には、言葉ではなく、心で交わした深い絆があった。それは、どんなに時間が経っても、変わることのないものだ。 「また明日、東京で一緒に会おう」  最後に僕はひと言だけ口にした。期待を込めて言葉を交わした。  その言葉には、仕事かプライベートかの区別などなく、ただ純粋な想いが込められていた。僕の心はすでに決まっていた。  タクシーが舞子を乗せて夜の帳に吸い込まれていくのを、僕はその場に立ち尽くして見守った。 彼女の姿が視界から消える瞬間まで、僕の足は動かなかった。心の中では、僕たちの絆がこれからもずっと続いていくという確かな信念が渦巻いていた。  舞子を見送りながら、僕の心は未来への希望で満たされていた。まだ言葉にはできないふたりの関係だけれど、明日への約束が僕たちの心に新たな物語を紡ぎ始めている。東京での再会が、僕らの物語にどんな輝きをもたらすのか、その時を心待ちにしている。  後ろを振り返ると、雲海の彼方に、かつて深く愛した妻が微笑んでいるように感じた。 「公太郎さん、もう私のことを忘れてください。貴方が望むように、恋にも仕事にも全力を尽くしてください」と彼女が囁いているかのようだった。その脇では、兄となる祐介が彼女の言葉にうなずきながら笑みを浮かべていた。   〈 完 〉
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