第三章 真心の契約

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第三章 真心の契約

   皇居の奥深く、荘厳な雰囲気が漂う松の間で、天皇陛下より総理大臣の正式な任命を緊張した面持ちで賜った。  目の前に広がる宮殿の間は、限りなく歴史の息吹と神聖なる存在感に満ちていた。その瞬間、僕の魂は悠久の歴史を刻む日本人としての厳粛な想いで満ちあふれ、かつてないほどの重みを感じた。  認証式が幕を下ろすと、僕は新たな使命感を胸に秘め、天皇家にもゆかりがある地として知られる広島への旅立ちを決意した。  公にはしていないが、広島は新たな首都として、奈良や仙台と並び立つ最有力な候補地であるとの確信に満ちている。  万が一、この情報が漏れたら、地方自治体間で移転地の激しい争奪戦が勃発し、首都移転の夢は水泡に帰すように儚く消え去るだろう。それゆえに、広島への視察は最高レベルの秘密裏に進められていた。遠く離れた場所からでも、ふたりのSPが鷹のような鋭い眼差しで周囲を警戒し、僕を警護していた。  大切な視察の際、SPとは別に心から信頼する丸山祐介がいつも決まってそばにいるので、安心していられる。  表立っては口に出せないが、公私にわたる特別な絆を持つ祐介は、亡き妻の兄であり、僕の政治生命を支えてくれた恩人だ。そんな訳で、彼とは遠慮なく何でも言い合える縁深い関係だ。  自らの出世を望まず、秘書官として、時に兄のように僕を支えてくれる。スキャンダルを避けるために、彼は常に裏方に徹し、僕の成功の影にいる。彼のおかげで、僕は今の地位にある。そして「日輪の光陰」という改革プランの名前も、彼のアイデアだった。  奈良と仙台も彼と一緒に視察した。今回は二日間、広島市内から港湾や山間部まで、自分たちの足で歩き、見て回った。これまでに様々な情報は耳にしていたが、他人の言葉よりも、自分の目で見ることの重要性を知っている。 「公太郎、やはりここが一番だろう」  祐介は確信に満ちた声で言った。  僕は、かつての戦争で深く傷ついたこの聖地が、日本再生のシンボルとなることを願っている。広島の広大な土地は、東京の約四倍もあり、その可能性は計り知れない。  過去を振り返れば、帝国議会が開催された歴史が息づき、天皇家の祖先が立ち寄られたふたつの有名な神社も存在する。戦時中には戦艦大和が建造されたこの地は、現在でも自衛隊の基地があり、西日本を支える重要な拠点となっている。 「祐介さん、僕も全く同じ考えです」  僕はためらうことなく応じた。それと同時に、広島が最も有力な地との確信を新たにした。視察を終え、心残りは少しばかりあったものの、観光地に立ち寄ることなく、温泉に癒されることもなく、東京へと戻る新幹線に飛び乗った。  議員になって以来、改革政党に所属しながらも、教条主義には囚われず、歴史を重んじる保守と大胆な改革を目指すリベラルの両視点を持ち続けている。野党のリーダーたちとも本音で話し合い、協力を求めている。 「今日の会合はどうだった?」  居酒屋で、僕は祐介に尋ねた。 「うまくいったよ、公太郎。野党の幹部たちも、僕たちのプランに興味を示してくれたんだ。あとは完成までのロードマップを練るだけだ!」  祐介は微笑みながら答えた。  政治の世界では、正論だけでは協力は得られない。根回しも必要だ。祐介の努力のおかげで、野党議員の中にも僕たちのプランに耳を傾ける人が増え、優秀な若手官僚たちの支援者も増えてきた。彼らの協力は、計画を推進する上で欠かせない。  理想に燃える心を抱えつつも、総理としての日々は休む暇なく過ぎていく。目指す改革への道は遥かに険しく、遠い。やるべきことが山積みで、家族のいない公邸に帰れば、壁に囲まれた静寂が心に重くのしかかる。外面では強がりを見せていても、人知れず抱える弱さがある。  時には、総理の責務を忘れ、ただのひとりの男として、心の解放を求める。四十路を迎え、孤独と対峙しながら、心の底からの叫びがこみ上げる。そんな寂しい夜、枕元で傾けるワインが、唯一の慰めとなる。  未練がましいと自嘲しながらも、目を閉じれば、七回忌を過ぎた今は亡き妻、詩織の優しい笑顔が思い浮かぶ。その記憶は、十年の時を超えてもなお、心の支えだ。思い返せば、彼女には迷惑をかけてばかりだった。  詩織が幼い頃から抱える重い難病を、僕は知っていた。けれど、彼女は僕が心配するのを避けるために、自分の命が削られている事実をひた隠し、いつも元気な姿を見せてくれていた。 「サラリーマンを辞めてまで、議員になるなんて、本当に大丈夫?」  詩織の声には、僕を想うあまり隠しきれない心配が滲んでいた。 「大丈夫だよ、詩織。君がいてくれるから」  僕の返答は、自信よりも、彼女への深い信頼と感謝を込めたものだった。  だが、僕が区議会議員に当選し、結婚を申し込んだわずか半年後、詩織は病気でこの世を去った。冬の嵐が心をかすめるような凍える深夜、彼女は病院のベッドに横たわり、さりげない微笑みを浮かべながら、切なくも美しい言葉を紡いだ。 「公太郎、黙って聞いて。私がいなくなっても、あなたは決してひとりではない。あなたの夢、私たちの夢、必ず叶えてね」  詩織の言葉は、彼女の最期の贈り物となった。僕は送り人として、悲しい姿は見せまいと、どうにか嗚咽をこらえた。そして、詩織が天国へとすこやかに旅立つのをいつまでも見つめていた。  長い年月が流れても、彼女への感謝の気持ちは色褪せることなく、今も僕の心の中で生き続けている。詩織の愛と支えがあったからこそ、今の僕が存在する。それは、永遠に忘れることのない約束だ。
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