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「あ、」
「あ?」
「サイン忘れてた」
吉崎はバッグを開け、田嶋から預かっていた本とサインペンを取り出す。
「友達に頼まれてたんです。サインがほしいって」
大丈夫ですか? と下からうかがうように芹澤を見やると、ぽつりと一拍置いて、なぜだかふたたび頭をなで回された。「あのなあ!」と今度こそおおきな声になった。
「はいはい、大丈夫ですよ」
と言うと芹澤は、本とサインペンを受け取った。「見えねえな」と目を凝らしたかと思うと、もう一度ルームランプに手を伸ばした。
伸びた腕のゆくえに妙な緊張感が走り、吉崎はさっと身を引いた。ふたたび明るくなった車内にちょっと安堵するのも、ほんの一瞬だけ胸のあたりがぎゅっと音を立てた理由もわからない。この日は、自分の思考が迷子の時間が多く、行き場のない手はシャツを握り締めていた。
「名前なに?」
「え、おれ? 言ったじゃん」
「はは、おめーじゃねーだろ。そのお友達」
ただ目を細めて笑う芹澤の笑顔が、薄暗い橙色のライトに照らされた。歯並びいいんだ、とこの場にそぐわないことを考えた自分がまたちぐはぐに迷走しているみたいで、握ったシャツから手が離せない。
「田嶋健……、ってやつ」
ずきずきと、心臓を針かなにかでつつかれているような痛みが襲う。
「田嶋健くんね」
痛い、と吉崎が思っているのに、芹澤はそんなこと気づきもせずハードカバーの裏表紙をめくり、油性ペンのキャップを外す。
「おー、初版ですか。ありがたいねー」
そう言って、きゅきゅっと文字が書かれていく。そのなめらかな動作はきのうと同じで、ペン先の流暢な動きだけでひとを惹きつける説得力があった。
作家だから? 文字を綴るひとだから? こういう職業に就くひとは、全員そうなのだろうか。
「田嶋健くんへ。ありがとうございました。芹澤遼太。へえ、ていねいなんですね」
ひとごとのように言い添えながら、やっぱり静かに胸が痛むのはなんでだろう。
「そりゃそうだろ、読者さんあっての我々」
「優しいんだ」
「なんだそりゃ」
まるで自嘲するような笑いかただった。「ほい」と本を手渡されたときには、もうその話題はお流れになったのか「また連絡します」と締められてしまった。
吉崎は車を降り、もう一度「ごちそうさまでした」と会釈した。彼はさっと右手を上げ、右にウィンカーを出して去った。走り去る車が見えなくなったあと、街路灯の下を歩きはじめ、坂を上る。寮に着いたのは、門限の十分前だった。入浴が二十一時三十分までなので、部屋に戻ったらすぐに風呂に入らないと。
なんだか、今ごろになって、どっと疲れた気がしたし、モデルだか取材だかを引き受けたことで、今さら足もとがおぼつかない感覚がやってくる。ふわふわしているのか、高揚しているのか、あるいは困惑か。そのどれとも取れる気がするし、どの言葉にも当てはめられない気もした。もしくは、吉崎がこの感情を表す言葉を知らないだけか。
あのひとだったら、じょうずに表現してくれるのかな。
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