ランドリー

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 部屋のドアを開けると、「おかえり」と田嶋が出迎えた。「ただいま」とひと言言い、ショルダーバッグを開ける。 「これ。サイン書いてもらった」 「え、え! ほんとに?」 「うん。『初版ありがたい』って言ってたよ」  田嶋はまた、声にならない感嘆の声を漏らし、本を受け取る前に天井をあおぎ見ていた。これが「尊い」というやつなのだろうか。 「よじざぎー、ありがどう」  濁点がいっぱいついた声で、もう半分くらい泣きながら田嶋は吉崎が持つ本に手を伸ばした。反射的に自分の指先にぐっと力がこもり、吉崎自身が驚いた。田嶋が、目をまばたかせる。 「あ、ごめん」 「ううん、ありがとう」  田嶋はにこりと笑うだけで、受け取った本を抱き締め、やっぱり天井をあおいで「尊い」と声を震わせた。実際に口にするひとに、はじめて出会った。 「芹澤先生の話って、結局なんだった? って僕は聞いていい?」 「ああ、なんか、高校生に取材したいらしくて」  ふたたび、胸がずくりとうずく。噓はついていないし、やましいこともないし、社外秘にも触れていない。言われた通りのごまかしかたで合っているのに、ためらった指先の感触が体から離れてくれない。  それ以上は追求されないことにほっとして、吉崎は風呂に入り、早々にベッドに横たわる。まだ机で読書中の田嶋は「邂逅読み返すから」と目を血走らせていた。部屋の照明は消し、デスクライトだけがともる室内は、ぼんやりとあたたかみのある明るさで、きょうのあの時間が真実だったのか繰り返し考えさせられる。頭のなかで何度回想しても、あれは現実だったし、芹澤の言葉もほんものだった。  吉崎はベッドのなかで、スマホを見る。検索バーに、芹澤遼太、と打ち込んだ。とても簡単に、あのひとの情報が流れ出てびっくりした。こんなふうに、世界中に芹澤はさらされているのだ。だれかが、だれでも、たった指一本であのひとの「あらすじ」を調べられる。  今まで出版された小説がずらりと並び、そのなかには「邂逅」ももちろんあった。スクロールして、ウィキペディアをタップする。  ――芹澤遼太(せりざわりょうた、1993年)は日本の小説家。  あのひと二十六歳なのか。九つもちがう。スクロールし、次は経歴をタップする。  ――中学卒業後、アルバイトで生計を立てながら小説を書いていた。第十五回創現書房新人賞で大賞を受賞し、「邂逅」で小説家デビュー。孤児で児童養護施設にいたとインタビューで語っており、「児童養護施設の前に毛布でくるまれた状態で置かれていた赤ん坊が自分だ」と隠さず公表した際は、読者を驚かせ注目を集める。炎上商法だと非難も浴びたが、「邂逅」は芥川賞候補にも選ばれた。「沈黙の蛹」で本屋大賞受賞。  吉崎は息をするのを忘れていて、はっと息を吸ったときは手汗で手のひらが湿っていた。  ――いーねー、その思っくそ同情した目。
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