ランドリー

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 芹澤はあのとき、嫌味も嘲笑もない屈託のなさがあって、言葉そのままの「いーね」だった。あのひとにとってほんとうに、これはただの「概要」なんだ。生まれ育ちとか環境とか、生きかたにしたってそう。「書くことが仕事」だから、どれでもいい。どうでもいいでもなく、世界にたくさんある不幸のひとつを嘆くでもなく、仕事の一部。  ――実際そんなもんだろ、世間さまが見る他人なんて。  ほんとうに、彼にとってはただの「世間さま」なんだ。  吉崎は気づかないうちに、手を握りしめていた。爪が食い込んで痛いほどで、歯を食い縛っていたせいか顎も痛い。  邂逅とは、思いがけなく出会うこと、偶然の出会い、めぐりあい。  指先が本を渡すのをためらった理由を、ほんとうはわかっている。田嶋に本を渡したくなかった。頭ではわかっていたのに、体が拒絶した。  だって、おれがもらったのにって。  吉崎は、タオルケットを頭からかぶる。ウィキペディアを映していたスマホは、とっくに光が途絶えていた。  あ、と口を開いた。傘を返してもらうのを忘れていた。おそらく、あのひとも忘れていた。まあいいや、と思った。芹澤が傘を持っている間は、それを口実になんらかのやり取りをする理由が、たしかに存在するはずなので。 「吉崎ー、もう帰る?」  授業が終わると、田嶋が声をかけてきた。クラスメイトがぞろぞろと席を立ち、部活動に行こうとする生徒もいれば、帰宅する生徒もいる。教室内は、部活だりー、とだらけた声も聞こえたし、カラオケ行くー? と放課後を待ちわびていた声もした。  鞄に教科書を詰めながら、それをぼんやり眺めていた吉崎は、田嶋が近づいてきてようやく我に返る。 「きょう野暮用あって、先帰っといてくんねえ?」 「わかった。夕飯は?」  寮の学食は三食用意されているが、いらない日はバツをつけることになっている。夜は塾に通う寮生も大勢いて、そのあたりはけっこう緩い。 「食うよ」 「りょうかーい。じゃあ先帰ってんね」  軽く手を振り、田嶋が教室を出たのを見送ってから吉崎も立ち上がった。天井に向けて腕をぐっと伸ばす。田嶋に変だと思われただろうか、とちょっと気にかかったが、なんとなく後ろめたくて言うのを避けた。べつに悪いことをするわけじゃないのに。  きょうは、取材という名目のお宅訪問があるわけじゃない。どうしても、行きたい場所があった。  学校から徒歩五分程度で駅につく。この駅からは海が見えた。入学当初、山間部に住んでいた自分からしたら、どこか収まりが悪くなる景色だった。  こっちに来たてのころ、散歩したときに気づいた。海は想像していたようなきれいなだけの自然物ではなかったし、生々しい生きものだった。サーフィンをするひと、犬の散歩をするひと、浜辺をただ歩くひと。その傍らでは常に波が動いていて、流木やときどきごみも運んできた。ここにいるすべてが、意志の強い生命体に思えてたじろいだ。  だけど薄墨色と薄花色が混ざり合う海の色は、やんちゃな生きものに似つかわしくなく寂しげで、矛盾した色合いは吉崎を困惑させた。いったい、どれがただしいのか。
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