4章 ミステリアスレディの中身  第1話 ミステリアスなあなた

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4章 ミステリアスレディの中身  第1話 ミステリアスなあなた

 桜の(つぼみ)がふっくらと膨らんで来ている。春の訪れはもうすぐである。うららかなお日さまが気持ちの良い日々が続いていた。  ご常連の女性、伊集(いしゅう)さんはの年齢は恐らく20台後半。いつでも黒い洋服を着ておられる。季節によって厚みや袖の長さは変わるものの、黒いトップスに黒いフレアロングスカート、黒いアウターを身にまとわれる。マフラーなどの小物やバッグ、お財布にスマートフォンもダークカラーだ。徹底されている。  そんな伊集さんが普段何をされているのか、双子は聞いていない。伊集さんは寡黙(かもく)なのである。だがいつも穏やかな笑みをたたえていて、時折だか世間話などもされるので、愛想が悪いわけでは無い様だ。  胡散臭(うさんくさ)いわけでは無いが、(とら)えようの無い不思議な雰囲気を醸し出すお客さまである。  その日も伊集さんは全身真っ黒な服装で来店された。 「こんばんは」 「こんばんは。いらっしゃいませ」 「いらっしゃい」  伊集さんは端の席がお気に入りだ。だが今は空いていないので、空いている中ほどの席にご案内した。  (さく)がお渡しした温かいおしぼりで手を拭いた伊集さんはほっと一息吐く。そして腰を浮かせてカウンタのおばんざいを眺めた。  今日のおばんざいは、お揚げとちんげん菜の煮浸し、タラモサラダ、からし菜のごま和え、ちくわと生わかめのポン酢和え、かいわれの卵焼きだ。  煮浸しに使っているちんげん菜は今が旬で、葉も芯も厚みがあって良い歯ごたえである。それを生かしつつ、お出汁の滋味とお揚げの旨味をまとう一品である。  タラモサラダのじゃがいもは新じゃがだ。新じゃがは皮が薄くて柔らかいので、皮ごと使う。新じゃがのほっくりとした甘みと明太子のピリ辛、マヨネーズとバターのコクが合わさって、ねっとりと舌に乗るのだ。  ごま和えのからし菜は、それ自体がぴりっとした辛みを持っている。そこに香ばしいすり白ごまが合わさって、味わい深くなるのである。  ナムルに使う生わかめは、春にいただける味覚である。さっと洗って水分をしっかりと切り、ななめ切りにしたちくわと合わせ、自家製ポン酢で和える。さっぱりとした味わいの中に、しゃきしゃきのわかめとふっくらとした甘いちくわが映えるのである。  卵焼きは、甘い卵の旨味の中に、かいわれのアクセントがおもしろい。生だと辛いかいわれだが、火を通してあげると爽やかな甘みが引き出されるのである。 「……タラモサラダと、からし菜のごま和えをお願いします。それと鶏の唐揚げを」 「はい。お待ちくださいね。唐揚げは半分にされますか?」 「ええ。お願いします」  伊集さんはお酒を(たしな)まれる方である。お好みは赤ワインだ。 「あずき食堂」では赤ワイン白ワインロゼワイン、それぞれ1種類ずつの取り扱いである。お酒がメインのお店では無いので、どうしても品揃えは良く無い。  仕入れているのは赤白ロゼ全て、サントリー登美の丘(とみのおか)ワイナリー産の登美の丘という銘柄である。山梨県にある日本屈指のワイナリーなのだ。  伊集さんは登美の丘の赤を注いだワイングラスをゆらゆら揺らしながら、お惣菜をつまむ。鶏の唐揚げは半分の量でお作りしていた。ご飯はお赤飯。こちらもお茶碗に半分だ。  お酒を飲まれる時、食べる量が減る方がおられるが、伊集さんもその様だ。こうした融通ができるのも個人店の強みである。  登美の丘の赤は、ワイナリーで育まれたぶどう100パーセントで作られている。ベリーなどの果実を連想させる様な香りに、甘いスパイスを感じさせる。まろやかでふくよかな味わいである。  伊集さんの口角がやんわりとあげられている。どうやらご満足いただけている様だ。  伊集さんはメインを半分にするため、鶏の唐揚げもそうだが、豚の生姜焼きや牛肉のしぐれ煮など、量を調整しやすいものを注文される。焼き魚や干物などはどうしても難しいので頼まれない。もともとお肉の方がお好きな様なので問題無いのだろう。 「すいません、赤ワインお代わりください。グラスはこのままで」 「ありがとうございます。助かります」  朔は伊集さんが差し出しだワイングラスを受け取り、そこにお代わりを注ぐ。 「お待たせいたしました。登美の丘の赤です」 「ありがとうございます」  そう応えて微笑まれた伊集さんはとても妖艶な雰囲気があった。不思議な魅力があったのだ。同性である朔ですらどきりとする様な。  本当に、伊集さんは何をされている方なのだろうか。謎は深まるばかりである。  その時。 「こんばんはー!」  お元気なお声で、まるで飛び込む様に「あずき食堂」に入って来られたお客さま。ご常連の竜田(たつた)さんである。  竜田さんはお若く、可愛いものが大好きな方である。だからなのかご自分の苗字がお好きでは無いとはっきりとおっしゃる。  朔にその感覚は無かったので、そう思われる方もいるのだなと思いつつ、竜田さんが望まれる、下のお名前である瑠花(るか)さんとお呼びしていた。 「瑠花さん、いらっしゃいませ」 「いらっしゃいませ〜」  (よう)も明るくお迎えする。瑠花さんはきょろりと店内を見渡し、真ん中ほどのお席に伊集さんを見つけてぱぁっと表情を輝かせた。 「伊集さぁん! こんばんは!」  伊集さんのお隣が空いていたので、瑠花さんはこれ幸いと飛び付く様にそこに腰を降ろす。 「こんばんは」  伊集さんはにっこりと瑠花さんに応えられた。その反応に瑠花さんは嬉しそうに破顔する。  瑠花さんは伊集さんが大好きなのである。なので来られた時に伊集さんがおられると、できることなら横に座りたがった。  だがそれができないこともある。その時瑠花さんはとても残念そうなのだが、お客さまがご常連で、瑠花さんの伊集さん大好きを知っている方なら、親切にも譲ってくれたりする。 「伊集さん聞いてください! あのね、あのね!」  瑠花さんはご注文も忘れ、伊集さんにまくし立てた。  1時間が経ったころ、伊集さんからお声が掛かる。瑠花さんとのお話はひと段落して、瑠花さんもご注文された煮浸しとポン酢和え、ぶりの塩焼きを頬張っていた。ご飯は白米である。お赤飯が苦手なのだそうだ。お酒は飲まれていないので、温かいほうじ茶をお出ししていた。 「朔さん、お会計お願いできるかしら」 「はい。お待ちくださいね」  朔は伊集さんの伝票を持って、厨房の片隅にあるレジに向かう。お会計はお席でしていただくのである。朔は料金を手早く打ち込んで行く。伊集さんは赤ワインを5杯飲んでらした。相変わらずお強い。つい感心してしまう。 「伊集さん、お待たせしました」  朔がトレイに載せた紙片を差し出すと、お札で支払ってくださったので、速やかにお釣りを用意する。 「今日もとても美味しかったです。ごちそうさまでした」  伊集さんはそう言い、しとやかに頭を下げられた。 「伊集さぁ〜ん、もう帰ってまうんですかぁ〜?」  瑠花さんが伊集さんに縋る様な視線を向ける。伊集さんは「ええ」とたおやかに微笑んだ。伊集さんはお酒を飲まれていたので、定食だけのお客さまよりは滞在時間が長かった。なので瑠花さんは1時間は伊集さんとお話ができたのだが、まだまだ足りないのだろう。 「瑠花さん、またお会いできたら嬉しいですわ。朔さん、陽さん、またお伺いいたします。では」  伊集さんは笑顔とともにそう言い残し、綺麗な姿勢でお店を出て行かれた。瑠花さんはそんな伊集さんの背中を見送り、「もぅ〜」と不満げなお声を上げて頬を膨らませた。 「もっと伊集さんとお話したいのに〜」 「ふふ、瑠花さんはほんまに伊集さんがお好きなんですねぇ」  朔がおかしそうに言うと、瑠花さんは「はい!」と笑顔になる。 「美人でぇ、ミステリアスでぇ、お上品でぇ、ほんまに素敵な人ですよねぇ〜」 「そうですね」 「でも、お仕事とか教えてくれないんですよぉ。普段何してはるんやろ〜」  朔も、そしてきっと陽も、伊集さんの個人情報はほとんど知らない。お仕事などもだが、大阪弁では無いので出身地も分からない。  ご本人もあまり語りたがらない様だし、双子の立場で聞き出すことはしない。双子とされるお話も他愛の無い様なものばかりである。だがそれで何の問題も無いのであるが。  瑠花さんとお話していると、少し気になってしまう。マリコちゃんなら何か判るだろうか。
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