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2章 金物屋さんの未来 第3話 義明くんの展望
数日後、義明くんはひとりで「あずき食堂」を訪れた。
「こ、こんばんは」
少し緊張した様な面持ちの義明くんは、かすかに口角を上げた。
「ええですか?」
「もちろんやで。どうぞ」
朔が空いている席にご案内すると、義明くんはおずおずと席に掛けた。朔がお渡しした温かいおしぼりで手を拭く。
「ひとりでこんな店に来るん初めてで、ちょっとどきどきしてて」
確かに少し目が泳いでいる様だ。そんな義明くんに安心してもらいたくて、朔はふわりと笑顔を浮かべた。横で陽も懐っこい笑みになる。
「もう高校も卒業で大人になるんやから、こういう店もひとりで入れる様になったら格好ええで。つってもうちは定食屋やけどな」
陽が明るく言うと義明くんは「そ、そうですね」と目をぱちくりさせた。
「あ、まずは注文ですよね。えっと、今日は鶏の唐揚げと赤飯ください」
「はいよ。ちょっと待ってな」
陽はボウルを出し、そこに角切りにしておいた鶏のもも肉、すりおろし生姜とお砂糖、日本酒とお醤油を入れてしっかりと揉み込んで、衣に片栗粉と小麦粉を入れて全体を混ぜ、適温に熱した菜種油にそっと落とした。
その間に朔はお惣菜の支度をする。
「お惣菜はどうする?」
「今日は何があるんですか?」
「今日はねぇ、焼き厚揚げのねぎソース、お揚げとちんげん菜の煮浸し、春きゃべつと人参の酢の物、ごぼうと舞茸のきんぴら、卵焼きは明太子やで」
「じゃあ厚揚げと卵焼きください」
「はぁい。ちょっと待っててね」
小鉢を出して、カウンタの大皿から厚揚げと卵焼きをそれぞれ盛り付ける。
焼き厚揚げのねぎソースは、厚揚げをフライパンでからりと焼いて、みじん切りにした白ねぎをたっぷり使った塩味のソースをとろりと掛けてある。ソースは片栗粉でとろみを付けてあるので厚揚げに良く絡む。
お揚げとにらの煮浸しは、みりんと日本酒、薄口醤油で味付けしたお出汁ににらを沈め、さっと火を入れてから余熱で火を通した。にらのしゃきしゃきとした食感と癖を損なわせず、お揚げの旨味も相まって風味の良い一品に仕上がっている。
春きゃべつと人参の酢の物は、太めの千切りにした春きゃべつに塩を振って水分を絞り、短冊切りにした人参と混ぜて、酸っぱさを控えめにした和え衣で和えてある。あっさりとしたお酢の中で春きゃべつの甘さが主張するのだ。
ごぼうと舞茸のきんぴらは、ささがきにしたごぼうと割いた舞茸をごま油で炒め、日本酒やお醤油などで調味をして、すり白ごまをたっぷりと振った。ほんのりと土が香るごぼうと舞茸の組み合わせは良く、それをすり白ごまがまとめ上げるのである。
明太子の卵焼きは、卵と解した明太子を混ぜ合わせて作る。明太子は生の状態を芯にして提供するお店が多いと思うが、このあずき食堂では作ったものを常温で置いておくので、食中毒を避ける意味でも完全に火を通す。生の明太子が持つ独特の新鮮な辛さが失われてしまうが、それでも充分旨味がある。
お赤飯、そしてお豆腐のお味噌汁を用意している間に唐揚げも揚げ上がる。全てを整えて「はい、お待たせ」と提供した。
「ありがとうございます!」
義明くんは嬉しそうに受け取ると「いただきます」と手を合わせてさっそくお箸を持ち上げた。
まずは熱々の唐揚げにはふはふと齧り付き「旨い! やらかい!」と声を上げる。
「ここの揚げ物旨いなぁ。ふわふわで肉汁っていうんですか? じゅわぁって滲み出て来る。やっぱり前に言うてた火通りとかあるんですか?」
「だけや無いけどね。特に肉類はみりんを使わへんのよ。みりんはお肉を固くしてまうからね。そういう細かいもんがあるんよ」
「そうなんですか。へへ、さっきまで緊張してたのに、美味しいご飯食べてたら気にならんくなって来ました」
義明くんは楽しそうに笑う。
「いつもこういう店は親と一緒か、学校帰りに友だちと牛丼屋とかファストフード店とかは行くんですけど、ひとりで入ることって無くて。大学始まったらこんな機会もあるかも知れませんね」
「始まったらって、じゃあ」
朔の言葉に義明くんは「はい」とはにかんだ。
「大学合格しました。それを言いたくて」
「おめでとう!」
「おめでとう! やったな!」
朔と陽は破顔して拍手した。高校卒業までまだ少し間があるだろうが、もう気分は半分大学生だろうか。
「ありがとうございます。俺、学力が結構判定ぎりぎりやったんですよ。せやから滑り止めも受けたんですけど無事第1志望に受かって。不思議なんがテスト受けてる時、なんやすらすら書けてる気がして。いつも以上に答えられた気がしたんです。もしかしたら父さんが言うてた、ここの赤飯食ったらええことある気がするってほんまやったんやろかって」
ならマリコちゃんのご加護を受けられたということなのだろう。義明くんは日々勉強に勤しんでいた。だから効いたのだ。
「義明くんが毎日頑張ってたからその成果が出たんよ。良かったね」
朔が笑顔で言うと、義明くんは「そ、そうやろか。ありがとうございます」と照れ笑いを浮かべた。
「合格発表が昨日で、昨日は母さんがごちそう作ってくれて、父さんも一緒に祝うてくれたんです。その中にとんかつもあって。やっぱり少し硬いなぁって思ったんですけど、なんだか妙に旨くて。あの俺、受験が全部終わってから家の手伝いとか始めたんです。食器運んだりとかぐらいですけど。自分の部屋の掃除も自分でやる様になりました。母さんに掃除機の掛け方とか教えてもろて」
「凄いねぇ。じゃあお母さま喜ばれたんや無ぁい?」
「喜ぶ前に驚いてました。「あんたどういう風の吹きまわし? 何があったん?」って」
義明くんは苦笑する。
「父さんも、自分で飲むお茶は自分で淹れる様になって。お茶っ葉入れすぎて母さんに怒られたりしてました。考えてみたら自分のことを自分でやるって当たり前のことなんですよね。特に今はもうそういう時代なんやって。母さんにも言われました。それぐらいやらんと将来結婚する相手にしんどい思いをさせるでって。今は共働き家庭が多いって聞くし、母さんかて店に出てるんですから共働きですよね。俺は大学は家から通えて、まだ最低でも4年は世話になるんで、できることはやって行こうて思ってます」
「大学生活も楽しみやねぇ。義明くんはどんなことを勉強したいん?」
「経営学です。俺、店を継ぎたいて思ってて」
「へぇ、えらい。そりゃあ町田さん嬉しいやろな」
陽が感心した様に言うと、義明くんは少し残念そうな顔で首を振る。
「いえ、渋い顔をされました。自分の代で畳むつもりやったって。もう金物屋が生き残って行ける時代や無いって。皆鍋なんかもスーパーとかで買うもんやって。でも俺、父さんが地元の爺ちゃん婆ちゃんと触れ合ってるのええなって。それは父さんが作って来た信頼関係なんやけど、できたら俺が引き継ぎたいわって。で、これから爺ちゃん婆ちゃんになる人たちも少しでも助けたりできたらって。父さん、電球とか仕入れてるんですよ。うち金物屋やのに。で、それだけ配達することもあるんですよ。付け替えもしてあげるって。それってお客さんがうちを信頼してくれとるってことですよね。凄いなぁって思うんです。母さんもお客さんとにこにこして話してて。俺にどれだけできるか判らへんですけど、そういうの絶やしたらあかんて思うんです」
朔は穏やかな気持ちになってふわりと微笑む。本当になんて素敵なことだろうか。義明くんはご両親が真摯にされていることを見ていて、それを素晴らしいと思ったのだ。
町田さんの悪い部分も受け取ってしまっていたが、そうした素敵な部分もしっかりと受け継ごうとされている。それだけ町田さんご夫妻の存在が息子さんである義明くんの中で大きいということなのだ。
「義明くんは凄いしっかりしてるんやねぇ。まだ高校生やのにご両親を見てそんな風に思えるなんて。凄いことやと思うで」
「そ、そんな」
朔の賞賛に義明くんは慌てた様に手を振る。
「俺なんて店の手伝いとかもろくにせんで。でも店って言うか家の近く歩いてたら、爺ちゃん婆ちゃんから声掛けられることがあるんですよ。今日もお父さんにお世話になったで、ありがとうって。ガキのころからそうで」
「そうなんや。そっかぁ、義明くんも小さなころからこの辺のお年寄りと関わって来たんやね」
「そうです。だから余計にそう思うんやと思います。経営学勉強してもどれだけ店に活かせるかは判らへんけど、大学入ったらバイトして社会人勉強もしたいなって。今は引退したけど部活やってて、バイトもしたこと無いから」
「アルバイトって、同じ金物屋でか?」
「いえ、金物屋自体が減っとるし、あっても多分募集してへんかなって。せやから雑貨屋とか、金物屋みたいに物を売る店で勉強させてもらおって」
「なるほどなぁ。確かにそれがええんかもな。バイトやったら接客とか棚卸しなんかが主な仕事やろうけど、それでも物販店のええ勉強になるやろうからな」
「はい。で、大学卒業したら父さんと一緒に店やりたいなって。そしたら母さんが楽できる様になるし。って、これは自分のこと自分でやる様になってから思ったことなんですけど。せやからあの、受験の前の日に言うてもらったの、良かったなって。せやなかったら父さんも俺も母さんの苦労とか分からへんかったやろうから」
「親孝行やね」
「俺なんてまだまだですよ。まだ世話になってばかりですもん。でもこれから少しずつでも返していけたらなって」
義明くんは照れた様に言うとお茶碗を持ち上げ、お箸でお赤飯を頬張って「もちもちして旨いです」と満足そうに口元を綻ばせた。
「これからは俺もここでこの縁起の良い赤飯食って、父さんみたいに頑張ります。また来てもええですか?」
「もちろんやで。いつでも来てね」
「はい。まずはちゃんと高校を卒業せんと」
「それが大事やね。大丈夫そう?」
「単位は取れました。あとは問題とか起こさんかったら大丈夫です」
義明くんはにっこりと笑って頷いた。
「よし、じゃあ合格と少し早いけど卒業のお祝いやね。お惣菜どれかひとつサービスや」
「え、ええんですか!?」
朔の提案に義明くんは嬉しそうに目を輝かせる。
「今日は特別やで。もう選んだのと同じんでもええよ。どれがええ?」
「ほ、ほな卵焼きもうひとつください」
さすがまだまだ食べ盛りの男の子だ。お野菜や茶色いお惣菜より卵などの方が好きなのだろう。朔は「ん、分かった」と新しい小鉢を出して卵焼きを盛り付けた。
「はい、どうぞ」
ご提供すると義明くんは「ありがとうございます!」と受け取り、さっそく大口を開けて卵焼きを一切れ放り込んだ。
「やっぱり旨いです。明太子入り旨いですね!」
そう言って嬉しそうに破顔した。
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