プロローグ

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あの年の頃の俺たちは、ああして憂いのない明るい気持ちには決してなれなかった。 いつも身体の内側に、不安や、葛藤や、戸惑いや、晴れぬ(かゆ)さを宿していたからだ。 思えば、逃げようとすれば逃げられた。が、三つの(くびき)が俺を縛っていた。それは同じ境遇にあったあの子と臆病な猫、そして、俺たちを日常から切り離した二人目の母親──。 約二年間、俺はそれらと暮らした。 その頃の俺の名前は、(かた)(ぎり)()()だった。本名は違う。 その頃のあの子の名前は、片桐()()だった。本名は(あお)()()()。十年もの間、どちらも忘れたことはない名前だ。 俺はいつも声では「マユちゃん」と()び、心の中では「ミコちゃん」と称んでいた。二人目の母親の前では、常に演技をしていた。従順であるように、それを信じこませるように。 展望台に、果たして心子はいるだろうか。十年も前に交わした約束を憶えてくれているだろうか。胸の中を吹き抜けた風に寒くなる。不安だ。一途に想い続けたからこそ、上に行くのが怖い。さっきの女の子みたいに期待だけを持てたら良いのに、今まで俺が味わってきた孤独が足を鈍らせてしまう。 腕時計を見ると、まもなく午前十時。目の前を通り過ぎていく中年カップルの女性から、二人目の母親の香りがした。俺はよろよろと後ずさり、苦い思いでタワーを見上げた。 (そら)から、雨が降るように、あの頃の記憶が落ちてくる。 香水の香り、カビの臭い、茉優の匂い。 これは(りゃく)(だつ)と、罪と、──初恋の話だ。
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