第5話 心が離れていない?

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第5話 心が離れていない?

「いや、いいんだ。他に男がいたわけじゃないし。カティアの心が離れていないのを確認できたから」  え? 離れていない? いやいや、中は別人よ。カティアじゃないのよ。その判断はおかしくない? 「あ、あの。求婚書を返したことは謝ります。ですから、その婚約はもう少し待っていただけませんか」 「構わない。カティアが落ち着くまで」 「え?」 「メイから聞いた。一週間前、カティアの様子がおかしくなったと。邸宅全体が騒ぐほど……ではなかったらしいが、三日間くらい記憶が混濁していたと聞いている。落ち着いているように見えるが、俺に敬語を使うくらいだ。やはりまだ、治っていないのだろう」 「知って、いたんですか?」  というより、邸宅内が騒ぐほどだったんだ。私は自分のことで手一杯だったから気がつかなかったけれど。と、感心した途端、あることに気がついて、私は固まった。  だって、最初は怒りで乗り込んできたじゃない! テーブルだって叩いて。怖かったのよ。  それなのに、何もかも知っていたなんて。いや、カティアが別人になっていることまで、スティグは知らないけど。それであってもあの態度はないでしょう!? 「俺のことも、『好きでもない人と結婚なんてできません!』って聞いて、ショックですぐに来られなかったんだ。カティアが一大事だって言うのに。俺は避けられるのが怖くて」 「それについても、謝罪します。でも怖かったのは私もです。近くであんな大きな音を立てられたら、誰だってビックリします」 「あれは! ……何度も求婚書を返すし、素っ気ない態度だったからで」 「それでもやめてください」 「カティアが敬語をやめてくれたらやめる。それにいい加減、俺の名前も呼んでほしい」  真剣な眼差しで言われて、私は戸惑った。私にとってスティグは、今日初めて会った相手だ。しかも、こんなかっこいい人を相手に、敬語をやめることなんて……できない。  今だって、スティグに合わせながら、カティアを演じて……いられているのか分からないけれど、とにかく精一杯なんだから。情報収集だってしている最中なのに。これ以上はキャパオーバーだ。 「カティア。今すぐ敬語が取れないのなら、せめて名前だけは聞かせてくれ」  そう、言われても……!  敬語を止めることができない理由と、名前を呼べない理由は同じだった。幼なじみなのだから、当然名前で呼ぶべきなのは分かる。それも呼び捨てに。  求婚してきた相手でもあるのだから……。  それでも私にとっては難しい問題だった。 「カティア」  もう一度名前を呼ばれて、催促される。 「カティア」  何度も求婚書を送ってきただけはあって、しつこかった。 「カティア」  まだ自分の名前、と思えるほどの月日は流れていないけれど、何度も呼ばれるとむず痒い。 「カティア」  どんどん優しくなる声音に、とうとう私は音を上げた。  婚約を待つと言ってくれているんだから、これくらいは我慢をしないと。  観念したように私は口を開き、彼の名を呼ぶ。 「……スティグ」 「カティア」  嬉しそうに再度、名を呼ぶ。真っ直ぐ見つめているのが恥ずかしいくらいに。さらにスティグは私に手を伸ばした。が、今度は逃げなかった。  もうやめる、と言ったから? 違う。もう怖く感じていなかったからだ。  スティグは私の髪に触れ、ゆっくり撫でる。これに対しても嫌な感じはしない。そして一房手に取り、愛おしそうに見つめた後、スティグはゆっくり唇を落とした。 「っ!」  スティグは満足そうに、こちらを見ている。おそらく顔を真っ赤にした私の顔を。  もしかして、好きになっちゃったの? この短時間で? 嘘!  私の態度はスティグの言う通り、心が離れていないことを証明していた。
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