推し活とコーヒー

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 店内奥、ひとりがけのテーブルにつき、希色は細く長く息を吐く。推しからの認知を初日からもらってしまっていることに、今日も今日とて震える胸を必死で落ち着かせる。  今日の推しもとびきり格好よかった。希色の顔を見ても嗤ったりなんてしないし、いつだってとびきり優しい。仕事中なのだから当たり前なのだとしても、憧れの人にそうしてもらえることはどうしたって嬉しいのだ。  ひとくちコーヒーを啜れば、やさしい苦みが口いっぱいに広がる。最初こそ顔を顰めた味も、少しずつ体に馴染んで今では大好きだ。  目を瞑って浸り、彼が描いてくれたペンギンくんをスマートフォンで撮影する。初めて来た時から、必ず撮って専用のフォルダに保存している。最初は見様見真似だったそれは、回数を重ねるごとにペンの迷いも消えてきている気がする。笑っていたり驚いていたり、表情にバリエーションがあるところもお気に入りだ。    今までの画像を順に眺めていると、スマートフォンがメッセージの着信を報せた。先輩モデルの翠からだ。 《お疲れ様。さっきの撮影、希色めっちゃよかったじゃん!》 《ありがとう。翠くんもかっこよかったよ》 《さんきゅ。宿題もちゃんとやるんだぞ》  軽快にラリーが続くメッセージだが、宿題の文字に希色はつい「う……」と唸った。  全くできないというほどでもないが、勉強はあまり得意ではない。今は春休みで、二週間もすれば高校二年生になる。クラス替えもあるし、新学期のことを考えると胃が痛むような気さえする。  返す言葉が見つからず、スマートフォンをテーブルに伏せる。高校生でいられるのはたった三年で、青春を謳歌しよう、なんて言うけれど。希色は学校のことより、モデルの仕事にもっと力を注ぎたいと思っている。  自信があるわけじゃない。かわいい顔は武器になると評され実感しても、実生活では未だコンプレックスのままだ。それでもモデルの仕事は想像以上に楽しかった。流行の服やアクセサリーを身につけ、自分だけど自分じゃないような、不思議な感覚。カメラの前では、まっすぐに顔を上げていられる。  だが、少しずつ認知度が上がってきているとは言え、狭い世界の中だけでのことだと言わざるを得ない。まだまだ無名に等しい。男性ファッション誌を読む層も、興味を持ってくれる女性も、他の業界と比べればひと握り。先輩モデルの翠のように、テレビCMにいくつも出たり写真集も出すほどになって初めて、世間一般にもようやく顔を覚えてもらえる、といったところだろう。  だけど――と、コーヒーを口に含む。こくりと飲めば香りが広がって、体中に決意が満ちる。自信のなさと想いはアンバランスでも、いつか自分も、と静かに揺れる火が、希色の胸には確かにあるのだ。  ふと顔を上げると、テーブルを拭いている推し店員と目が合い、微笑まれてしまった。学校のことを思い出し気が重くなったが、やはり今日は最高のラッキーデーだ。
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