43人が本棚に入れています
本棚に追加
そういえば向かいの店舗はずっと改装していた。前は確かクリーニング屋で、でも店主がもう歳だからと閉店を決め、そのパーティーをうちの喫茶店で開いたのは何年前だったか。それからずっと空き店舗だったそこに、新しい店ができた。美容院だ。
ガラス越しにすごく、ものすごーく見覚えのある姿が見える。偉そうに何人もの前に立って、朝礼のようなことをしている背の高い姿。
「来ちゃった」
「いらっしゃいませ出口はこちらです」
「相変わらずの塩対応。あぁ、照れてんのかな」
「イタイ勘違いはシンプルに恥ずかしいぞ」
「空いてる席座んね」
「チッ」
店がオープンしたら、もうここには来ないと思ってた。でもまさかのまさか、こいつの店はうちの真向かいだった。
準備してる時に気づかなかったのかと自分でも思う。でもこのへらへらした眠気製造マシーンの自称カリスマ美容師は、存在感を出したり消したりできるらしい。してやられた。こっちは何もしてないのに。
「ご注文は。お勧めはそこの入り口兼出口です」
「店長ちょうだい」
「お帰りはこちらです帰れ」
そして相変わらずの軽口。お願いだからじっと見ないでほしい。
グラデーションの瞳。夜と朝を混ぜたみたいな夜明けの瞳。
俺は夜とは仲が悪くて、朝にはめっぽう弱いんだから。
それを知っていて俺を見据えるグラデーションに堪らず顔を逸らすけど、もしかしたら、ほんのちょっとだけ。
これからは仲良くできるかもしれない。
そう思わせた彼が憎らしくて、また店で一番高いメニューを勧めた。
「そういえば欲しいものあったんだった」
「季節のデザートセットですか」
「家」
「は?」
「暁と一緒に住むための、家」
店内から歓声が上がるのが聞こえる。その前にこいつ何て言った?
「うちは不動産屋じゃありませんが」
「マンションと戸建てどっちがいいとかある?でも景色いい方がいいかな」
「聞けよ」
「おれん家に来てくれてもいいけど、ここまではちょびっと距離あるもんね。通勤時間も寝てたいじゃん?」
「一人で寝てろ」
「おれもさ、もう一人じゃ眠れないかも」
嘘だ。いつでもどこでも眠れる奴がふざけたことを…。
「だからさ。責任取ってね、暁くん」
「………ちょっと、保留で」
ぼそりと呟くと、店内が今度こそ大きめの歓声に包まれた。あちこちからやいやい騒がしい声が聞こえてくる。
「やったな兄ちゃん!保留だってよ!」
「押せばいけますよ!もうちょいです!店長押しに弱いんで!」
「秒で断らないってことはほぼオッケーってことだろ!」
皆やっぱりこいつの味方か…!というか誰だ押しに弱いとか言った奴!うちのスタッフだろ!後でじっくり問い詰めてやる…。
「愛されてんねぇ、暁」
「うるさい暁呼ぶなお前のせいだ」
「お前じゃなくて、」
「やよい」
「…!」
「夜宵が家賃全部持ちだかんな!」
「…言ったな」
あぁ、もう戻れない。店中の歓喜の声は遠く聞こえるが俺はそれどころじゃなく、じっと見つめてくる夜明けに捕まってしまったことを実感していた。捕まったのか、俺から飛び込んだのか。どっちなんだろう。
「…家賃、やっぱ半々で」
「どっちでも。買うでもいいよ!帰り不動産屋行こうね」
「店長…押しに弱いにも程がありませんか?さすがに心配なんですけど」
「うっさい」
「おれも心配」
「お前が言うな」
もういいか。認めてしまおう。
俺だってこいつなしでは多分もう、寝られないかもしれない。
…やっぱ気のせいかもしれない。
最初のコメントを投稿しよう!