the other side

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「あっくーん、朝ですよー」 「うっさい…まだ寝る…」 「はああああ囲いたい」 「………あんだって?」 「いや、たくさん寝るあっくんもかわいいなって」 「あっくん…呼ぶな…」 「遅刻しますよ…まいっか」 もうちょっと。あと三分…いや五分…やっぱり十分だけ。 どうせベッドから出ようとしてもこの有り様だしなぁ。 寝惚けるとすりすりとすり寄って来てくれるどころか、全身でぎゅっと抱き着いてきてくれるこのかわいい生き物。 昼間の塩すぎる対応とはまるで別人みたいだけど、どっちもいい。両方愛しい。 もうすっかりクマはなく、以前よりハリ艶も良くなっている頬をつつきながら思う。 この顔が見られるんなら、諦めないでいてよかったなぁ。 「やよい…うるさい…」 「何も言ってないんだけど」 「視線がうるさい…」 「視線がうるさいかぁ」 それはしょうがない。自分でもじっと見つめてしまうのは止められない。気づいたらじいっと瞳に閉じ込めようとしてしまうのだから。 そればっかりは、勘弁してほしい。 ホント、別人みたいに明るくなったなぁ。顔色も、表情も。 …それがおれのせいだったらすごく、すごく嬉しい。 髪を梳く。おれの毎日のケアのおかげで、以前よりも随分艶があって綺麗になった。 頬を撫でる。「ううん…」と身動ぎするだけで、特に逃げられなかったので撫で続けた。 あーぁ。朝とは仲が悪かったのになぁ。 いつの間にかこんなにも焦がれるようになってしまった。 全部、きみのせいで。 実は、彼には話していないことがある。 起きるのが苦手なおれは毎朝ベッドから抜け出すのも一苦労で、朝は大嫌いだった。 誰にも何にも言われない、求められない、言い寄られない、好奇の目で見られない、静寂の夜に沈んでいたかった。 毎朝毎朝、ガラス越しの店内から見える人、人、人。最早日常の背景と化してしまったその光景に何の感慨もない。 だけどある時、その中に一人、やたらと気にかかる青年を見つけた。見た目は学生かなと思うくらい若くどこかあどけない。 なのによく見れば目の下のクマがひどくて、見た目の年齢の割にはやたら覇気がないなというのが第一印象だった。 すごく派手な服装をしているわけでもない。人より背が高いわけでも、整った容姿をしているわけでもなかった。 人混みに紛れてしまえば、あっという間にどこにいるか分からなくなりそうなくらい平凡な青年。まぁ実際はおれより一つ二つ上だと分かったわけだけど。 そんな青年の様子が毎朝気になって、今日は寝られたみたいだとか、あぁ今日はダメだったかとか、おれまで一喜一憂するようになった。 そうして数ヵ月が経った頃だった。ふらふらと、酔っ払いが二件目に行くみたいな足取りでおれが働いていた美容院に彼が来たのは。 彼はいつも以上にぼんやりしていてすごく心配したし、間違えて来たというのも分かっていた。だけどそのまま帰したくなくて、半ば強引におれが接客して、あれやこれやと彼のことを聞き出して。ぼうっとしている彼の髪を、いつも見ているだけだったボサボサの黒髪を、いつも以上にお洒落に仕上げてやった。 彼はされるがまま、意識を半分どこかへ飛ばしながらもおれの質問には律儀に答えてくれた。ちょっと、あまりにも色々と心配になるくらいだ。今でもそういうとこ心配なんだけど。 そうしてぽつりと零された言葉。 「安心する」だなんて、彼にとっては初対面だったおれに渡されたあまりにも単純で短い言葉。 だけどたったそれだけで、今まで降り積もってきたものがはっきりとおれの中で形になった気がした。 きらきらと鬱陶しいくらいの輝きをもって、存在を主張しだした。これはもう…おれ一人ではどうにもできなかった。 というわけで。 それからというもの、彼の経営する喫茶店に足繫く通っては彼を堂々と観察した。行く度に「帰れ」と塩すぎる対応をしてくるにも関わらず接客は丁寧だし、軽口は叩くけど一挙手一投足が優しく、気遣いに溢れていて、常連さんも彼のことをとても可愛がっているのだとすぐに分かってちょっと妬いた。他のスタッフも彼に軽い態度は取るものの、きっと彼を尊敬しているだろうことが見ているだけでも伝わってきて…やっぱり妬いた。 一時期本気で彼の喫茶店で働こうかと思ったが、きっと面接どころか書類ですぐさま落とされてしまうだろうことが想像に難くなかったのでやめておいた。まぁ、働いてるより店で客としてじっとしてる方が観察できるし。一応は…まぁ一応は、客として無視はされないし。 そしてある時ふと気づいてしまった。どれだけ寝不足でも、しんどくても、お客さんの前では絶対に欠伸をしなかった彼が…おれの前で欠伸をした。 初めて美容院に来たあの時みたいに重そうな瞼に抗いながら、必死で…他の客が気づいていたかどうかは知らないが…おれの注文を取っていた。 彼は何事もなかったかのように取り繕っていたが、おれが見逃すわけもなく。 …もしかして、眠くなった? おれのそばに来て、安心しちゃった? 自惚れはやがて確信に変わって、どうしようもない嬉しさとやっぱり心配と、言い表すのも憚られる黒い感情が渦巻いた。 そっか。安心するのか。 …そっかぁ。 彼がこの瞳に弱いこともすぐに分かっていたおれは、使えるものは使うことにした。それが例え自身で疎ましく思っていたものであっても。 彼に見つめ返されるとどうしてだか、この瞳も悪いものじゃないんじゃないかと思えた。 気味が悪いとも、おかしいとも、気持ち悪いとも言われなかった。まぁ別の意味で「キモいから見んな」的なことは何度か言われた気がするけど。 それがどうにも心地好かった。 彼のクマを消してやりたかった。彼の体調がただ単純に心配で、どうにかしてやりたかった。もちろんそれだけじゃなかったけどまさか、おれまでこんなに心地好くされてしまうだなんて思いもしなくて。もっと。 もっと。もっと。もっと。 どこまでも欲しくなった。それは今でもずうっと留まることを知らない、おれだけが知っている感情。 ………。 あーぁ、さすがにそろそろ起きなきゃなぁ。 起きて、俺をその瞳に映して。 今日も夜明けが美しいと、おれに感じさせてくれ。
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