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遅効性の毒を一粒ずつ、飲み込むような毎日だ。
嘆くほどでもないことが、涙として流すほどでもないような、けれど楽しいとは対極にあるようなことが、意識していてもいなくてもしんしんと降り積もってくる。楽しいこと、笑えること、嬉しいと思えることもその下にちゃんとあるのに、あとからあとから降ってくる「毒」がそれらをも、うざったく浸食して塗り替えようとしてしまう。
そういうものを、考えてもどうしようもない毒どもの効果を、より強く感じるのはいつだって夜だった。
普通の人ならば眠って溶かせてしまうだろうそれらを俺は持て余して、目を閉じたり開けたりして、結局そいつらとともに朝を迎える。眠れても多少は残っている日常の微弱な毒は、眠れなければ無駄にその力を増していくような気がして。
じわじわと、綺麗でもないくせに降ってくるそいつらが鬱陶しかった。
しかしいつからだろう。
この瞳を見ていると、あれだけ厄介でうざったくてどうしようもなく感じていた毒が、じわじわ溶かされてなくなっていく心地がした。黄色と濃い青が混ざり合った、夜明けみたいな瞳。上から下にかけて明るく、夜が明けていくような、グラデーションの瞳。夜明けの色なんて俺には皮肉としか思えないのに。
作り物みたいなその瞳は自前らしい。ずうっと見つめているとまさしく吸い込まれてしまいそうという表現がしっくりくる彼は、三ヶ月くらい前までは全然知らないひとだった。
「あっくーん、注文ー」
「あっくん呼ぶな」
いつもの席にどかっと居座って馴れ馴れしく接してくるこの男、無駄に存在感がすごくて邪魔である。
今も店内中どころか窓から見える通行人の視線までもを一心に集める彼は、見目だけは良い。そう、見目だけは良いのだ。
ひらひらと手を振られ、嫌々テーブルに近づくと、もっと近く寄るように手招きされる。何の疑問も抱かず言われるままにかがんだ俺に、ぐっと端正な顔が近づいてきた。
「まぁた眠れてないんだ」
見ていても何のおもしろみもないだろう俺の顔をじいっと見ながら、無表情で彼は言った。
大きくも小さくもない平凡な目の下に刻まれたクマを白く繊細な指が撫でてくる。くすぐったい。
「添い寝しよっか」
「いや、結構です」
寧ろ落ち着かなくて余計眠れなさそう。添い寝したら眠れるだろうってどういう理論なんだ。温かいからとかいう理由ならいらない。寒ければ毛布を足すし、そもそもこの時期は暑いくらいだ。俺の素っ気ない返答を受け取って、白い指は名残惜しそうに離れていった。
「まぁ、寝かせてあげられる自信はないんだけども。色んなイミで」
「セクハラやめろや」
「はは」
「ご注文は以上ですね帰れ」
「まだ注文すらしてないのに」
ここは喫茶店。街の中心地からほんのちょっと離れた路地にある、ホントに小さな喫茶店。
それも小洒落た今風な喫茶店ではなく、どちらかというと昔ながらの雰囲気が色濃く残る、俺が先代のじいちゃんから受け継いだ、小さな、そして大事な店である。
ちなみにじいちゃんは俺が働いている日中ここぞとばかりに麻雀に出掛けており、全くもって元気である。…まぁいいけど。
そんな小さな喫茶店にある日現れた派手で一見美しいこの男。何をどうしてここを知ったのか、何が気に入ったのか、ほとんど毎日やってくるようになった。そしてこんな風に軽々しい態度で俺に接してくるようになった。
初めの頃は芸能人だなんだと騒いでいた常連のお客さんたちもやがて慣れて、今では微笑ましい顔で俺たちのやり取りを見守っている。見てないでこいつ何とかしてください。
夜の海みたいに暗い髪に、ちらちら見えるシルバーのフープピアス。短いこの期間で、何度引きちぎってやろうかと思ったことか…。
「なぁに、こっちじろじろ見て。やらしー」
「………出禁にしようかなあ」
「え、まだ何もしてないのに?」
「まだ…?」
過剰なスキンシップやめろや、という念を込めてじろりと見つめるも、まるで何も分かっていないような顔できょとりと見つめ返される。
………。
…ホントにもう。
はあ、と諦めの溜め息を吐いてキッチンに逃げるが、壁で見えなくなるまでグラデーションの視線は俺を追っていた。
少し前から通ってくるようになったあの不思議な男は自称美容師である。彼曰く、三ヶ月ほど前、俺がふらふらと寝不足の頭でいつもの店と間違えて入った美容院にいて、俺の接客を担当したのが奴らしい。ちなみに俺はほとんど覚えていない。
いつもは髪なんて短くなればいいや、くらいの感覚で駅前の安くて速い散髪屋さんに通っていたのだが、眠れない日が続き思考が鈍っていたらしい俺はどうやら入るお店を間違えたのだ。何かいつもより洒落てんなとは思った。そんで皆いつもよりお洒落だなとも思った。そうして流されるままにうんうん頷いていたら、いつもよりお洒落な髪型に変身していたのは覚えてる。
でも正直、俺の接客をしてくれたこいつ…今はもう昼過ぎというのにオムライスにサンドイッチにいちごパフェという、見ているだけで胸焼けしそうなメニューをガツガツ食しているこの変人…彼のことはマジでほとんど覚えてない。
こんなに存在感の自己主張が激しい彼のことなら、たとえ寝不足の頭でも覚えてると思うんだけどなぁ。
俺だって一応接客業なわけだし。
そしてかなり偏見たっぷりだが、アイスコーヒーしか飲まなさそうな外見をしているこの男。体形はスラッとしているくせにいつも、チーズ入りオムライスとかいちごパフェとかチョコレートケーキとかカロリーの高いもんばっか頼んではもくもくとそれらを頬張って、店にいる間中じいっと俺を観察してくる。見てて面白くも何ともないだろうと言っても「めっちゃおもろい」と、怒ればいいのか呆れればいいのか分からない返事が返ってきたのは記憶に新しい。揶揄われてんだろうな。
もう慣れたとはいえ、悪態もつきたくなるというもの。いっそ太ればいい。ニキビできろ。虫歯になれ。というかそんなにたくさん食いたきゃファミレスにでも行けばいいってのに、わざわざ毎回ウザ絡みしに来やがってあほか。
だけど俺にとって一番腹が立つのは…あの男のそばにいると、眠気がやってくるということだ。
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