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パチンとはじかれた輪ゴムは狙っていた的から見当違いの方に飛んで行った。
「レイ兄、貸して!」
美雨は僕から割りばし鉄砲を受け取ると、代わりにさっき取ったばかりのスーパーボールが入った袋を僕に渡す。美雨の目論見通りに調理部の出し物のクレープに舌鼓と打った僕たちは、いくつかの教室を冷やかしてから、夜市風の雰囲気を出していくつか出店を立てている教室に入った。
スーパーボール掬いでも僕が早々にポイを破る中、美雨は担当の生徒の顔色が変わるくらいにスーパーボールを掬ってみせた。そのうち色の綺麗な3つをもらって次に挑んだのが割りばし鉄砲による射的だったけど、こちらも僕が撃った輪ゴムは自ら的を避けているかと思うくらいまともに当たらなかった。
美雨は射撃位置の白線から腕を目一杯のばして割りばし鉄砲を構える。メイド服に鉄砲というアンバランスな組み合わせのはずなのに、なんだかすごい絵になった。写真に収めたいけど、それで美雨の集中力を切らしても悪い。そんな美雨の様子を近くにいた女子生徒も食い入るように見守っている。
美雨の手元から放たれた輪ゴムは、吸い込まれるように「3等」と書かれた的を弾き飛ばした。
「やったよ! レイ兄!」
美雨がぴょんぴょんと飛び跳ねながら僕の方に駆け寄ってくる。その無邪気な様子に美雨も楽しんでいるようでホッとする。3等の商品は割って食べるチューイングタイプのアイスだった。美雨は真ん中から半分に折ると片方を僕に渡してくれた。そういえば、メイド喫茶では注文する前にバタバタと教室を出てしまったなあと今さらながらに思う。
十月とはいえ歩き回ると汗ばむくらいには暑く、冷たいアイスが心地いい。美雨も上機嫌な様子で出店が立ち並ぶ教室を出た。
「あ、あのっ!」
教室を出たときに話しかけてきたのは、先ほど美雨の様子を見守っていた女子生徒だった。美雨に対してかと思ったら、その視線は僕を見上げている。
「榑松零士さん、じゃないですか?」
ざざっと自分の血の気が引く音が聞こえた気がした。ここまでしばらく何もなかったから、油断していた。女子生徒の声は教室内に響いていて、僕の名前を呼ぶ声がさざ波のように広がっていく。パニックの前触れの気配。
「レイ兄、走って!」
動くことができないでいた僕の手を美雨がグイっと引く。そのまま走り出した美雨を転びそうになりながら追いかける。美雨は迷いなく本校舎を出ると、僕を体育館の方へと導いていく。軽音楽部がライブでもしているのか、歌声が響く体育館の裏手の方まで走っていく。
膝の部分ほどまである草をかき分けるようにして、そのまま体育間と学校の敷地の塀の隙間にある僅かなスペースに僕を引っ張っていった美雨は、険しい顔をしてスマホを操作する。少しして、美雨は頭を抱えるようにしながらため息をついた。
「レイ兄、しばらくここにいて」
「あ、美雨――」
声をかけている途中で美雨は身をひるがえして校舎の方へと戻っていった。ざわざわとしていた校舎側の空気が俄かに騒がしくなった気がする。
さっきまで学生に戻ったような気持ちで盛り上がっていた気分がしゅるしゅると気分が萎んでいく。少し雑草の生えた砂利の上に体操座りをして、空を見上げる。地上の喧騒など嘘みたいに綺麗な秋晴れだった。
そうやって空を見上げていると、僕はどうして榑松零士なのだろうというどうしようもないことを考え始める。
元々、人付き合いは上手い方ではなかった。でも、幼いころから演劇をやっていた僕は、不思議と舞台の上で演じてるときはスイッチが切り替わったみたいに何でもできた。そうして演じることにのめりこんでいくうちに、人付き合いはますます苦手になった。
そんな僕の人生が変わったのは、高校生の頃だった。
とある漫画の実写映画のオーディション。僕より演技がうまい人はたくさんいたはずだけど、主人公の仲間の役に選ばれた。映画は無事――というか想定以上のヒットを記録し、主役にとどまらず榑松零士の名前は特別な意味を持つようになった。
高校では、人付き合いが苦手な僕と、映画の中で躍動する榑松零士が同居して、僕は浮いた存在だった。話しかけてくれる人はいたけど、友達と呼べるような相手にはならなかった。
それだけではなく、家族や親戚の僕に対する扱いも大きく変わった。それまではただの内気な高校生だったのが、急に一族の誇りみたいな扱い。
僕が思っていた以上に、僕の周りに起きた変化は大きかった。誰もが僕を見るときに役者としての榑松零士を見る。だけど、演じているときの榑松零士はいわばスイッチオンの状態で、それを普段まで持続させるのは不可能だった。あの頃の僕は、パニック寸前だったと思う。
――その中で、美雨だけは僕をレイ兄として見続けてくれた。
従妹の美雨と僕は七歳違いだったけど、親戚の中では一番年の近い僕を昔からレイ兄と慕ってくれた。
それは僕が映画やテレビドラマに出るようになってからも変わらなくて、そんな美雨は僕にとって心が安らぐ数少ない居場所になった。僕が役者でも何でもないただの榑松零士という人間であれる場所。未だに人見知りで、不器用な僕が一人の人間として過ごせる相手。
でも、その居場所は僕のせいで失われていくのかもしれない。静かに過ごすためには、僕の周囲は騒がしすぎる。
多分、文化祭が終わるまで美雨は帰ってこないだろう。これ以上校内がパニックになれば、文化祭が台無しになってしまう。美雨と少しだけ巡った文化祭は楽しかったけど、こればっかりは仕方ない。仕方ないけど、榑松零士という存在から逃げ出したくなる。こんな風に体育館の裏側で丸まっているみたいに。
視線をあげると、相変わらず雲一つない蒼空。眩しくて見ていられなくなって、膝に顔をうずめる。
『今日ね、英語で“雨”って習ったの!』
空を見上げたせいか、まだ美雨が小学生のころの会話を思い出した。
『雨ってレイニィっていうんだって!』
『美雨、なんか嬉しそうだね』
『だって、美雨の中にレイ兄がいるみたいじゃん!』
それはちょうど僕がデビューして少しずつ周りの視線が変わっていった頃で。
無垢に笑う美雨の頭をくしゃりと撫でながら、すっと心が軽くなるのを感じた。そして、これからも美雨が僕を見る目が変わらないことを願った。
『そうだね。美雨の名前の半分は僕みたいだ』
『じゃあ、美雨とレイ兄はずっと仲良しだね!』
美雨は、その言葉の通り僕への態度を変えることはなかったけど、僕の周りの環境はみるみるうちに変わってしまった。もう、昔みたいに美雨と過ごすことはできないのだろうか。自問して、ため息があふれた。
「あー、もう。迂闊だったあ」
聞こえてきた声に顔をあげると、制服姿でひざ下についた草を払う美雨がいた。
「美雨、どうして……」
「私のメイド服の方が、レイ兄を探す目印になってたみたい」
美雨が僕に対してスマホを見せる。それは、SNS上にアップされたメイド喫茶での僕と美雨の写真だった。なるほど、確かに僕が制服姿に着替えた後は美雨の方が目立っていたのかもしれない、けど。
「このまま戻ってこないかと思ってた」
美雨の顔に困惑が浮かぶ。
「なんで?」
「僕が一緒にいると、美雨に迷惑がかかるから」
僕が美雨のメイド姿を直接見たいと思ったばかりに、美雨は普通の文化祭を楽しむことができなくなっている。今さら手遅れかもしれないけど、僕がこのままここに隠れていれば、美雨は残りの文化祭を楽しむことができるかもしれない。
「レイ兄は、追いかけられてばかりで文化祭楽しくなかった?」
お化け屋敷や出店など、こんなに純粋にワクワクしたのはいつぶりだろう。きっと、一人で文化祭をうろうろしてもそんな体験はできなくて、隣に美雨がいてくれたから。
「楽しかった」
「私も、楽しかった。理由なんてそれだけでいいじゃん」
美雨が僕に向かって手を差し出す。これではどちらが美雨の方がお姉ちゃんみたいだ。ニッと笑みを浮かべた美雨の姿は青空の下で眩しく輝いている。
「それに、今の私が接客したらクラスに迷惑かけちゃいそうだし」
「ごめん」
「なにより!」
僕の言葉を遮った美雨はスマホをしまいながら僕の手を取る。スマホの画面が消える直前、「頑張れ!」というメッセージがちらっと見えた気がした。
「レイ兄とこんな風に文化祭を楽しめるなんて特権、逃がすはずないし!」
美雨にぐっと手を引かれて、立ち上がる。いつもより少し近い距離で、美雨はすっと背伸びをする。
「何があっても迷惑なんて思ってないよ。私の名前の半分は、レイ兄なんだもん」
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