3人が本棚に入れています
本棚に追加
尻歩きする人 ―― shiriaruki-ller ――
珠野市役所介護高齢課の窓口を訪ねてきた女性は、蚊の鳴くような声で話し始めた。
「私が働いている介護施設のことですが……」
窓口対応の茂木義実は、全神経を研ぎ澄ませて、女性の言動を記憶しようと努める。
「すみません。私は小野愛歌といいます」
女性は名刺を出して見せてくれた。
高校を卒業して7年目、今年で25歳になる義実は、これまでの業務で培った笑顔を愛歌に向け、もう一度、名刺証に目を落とした。
愛歌の肩書きは介護施設の施設長兼看護師。職場は「はくあいホーム珠野」。
「小野さんは、看護師さんなんですね」
「ええ。もう35歳ですが、若い部類に入るみたいで、頼りにはされていませんが」
愛歌は、名刺入れをバッグに戻しながら答えた。腕時計は右手につけていた。
「以前の施設長が退職して半年経ちますが、慣れないことばかりで……実は、入居者様のひとりが……以前も相談させて頂いたのですが……今度は別のかたが」
本題に入り、歯切れが悪くなった。愛歌は話しづらそうに俯く。
義実は、愛歌の顔の変化を注視する。厳密には、顔を被う黒い靄に、だ。
「……入居者や職員が相次いで怪我をしてしまい、休職者も退職者も複数名出ているのです」
「……そうでしたか」
思考が脱線してしまい、義実は曖昧に相槌を打ってから詳しい話を聞くことにした。
愛歌の顔の周りには、薄い靄が漂っている。色が黒色というだけであり、負の感情は読み取れない。靄に絡みつく感情には、夫と義両親に愛され、今の仕事を心配されている様子がうかがえた。
義実は昔、相貌失認を疑われた。
相貌失認とは、人の顔が認識できないという症状である。脳血管障害や外傷、脳炎などによって現れることがある。
義実の場合、人の顔を覚えることに苦労はしない。だが、物心ついたときから、多くの人の顔に黒い靄がかかって見えるようになっていた。人によって靄の濃さは異なり、靄がかかっていても顔のパーツがわかる人もいるが、特に成人は顔が認識できないほど墨で塗りつぶされたような靄がかかっている人が多かった。
そんな義実が公務員となってごく普通の生活を送っているのは、実母に棄てられた義実を拾ってくれた、今の家族のお蔭である。
最初のコメントを投稿しよう!