尻歩きする人 ―― shiriaruki-ller ――

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 一希から着信があったが、義実が気づいたのは、退勤した後だった。折り返したが、応答は無かった。  義実は自分の車に乗り、考えた。いつもなら、このまま帰宅する。しかし今日は、「はくあいホーム珠野」に行く気もある。業務でもないし、自分は部外者だが。 「茂木(もてぎ)さん⁉」  連絡もなく「はくあいホーム珠野」を訪ねた義実に、愛歌は声を裏返して驚いた。当然の反応だ。 「居ても立ってもいられないくて。皆、寝たんですか?」 「ええ。着床介助が終了するのは18時。今は、夜勤者の勤務時間です。介護施設は、どうしてもこうなってしまうんです」  閉められたカーテンの隙間は、まだ明るい。 「まだ陣野さんが成仏できていないんじゃないかと思ってしまうんです。他の職員もそう思い始めています。現実的でないのは、わかっています。それでも……」  愛歌が話している途中で、義実のスマートフォンが鳴った。一希から電話だった。 『よっちん、ごめん! 電車に乗ってて気づかなかった!』 「先に気づかなかったのは俺の方だ。ごめん」  ナースコールが鳴り、愛歌が該当の居室に向かってしまう。 『珠野市の広報と一緒に配布された、不審者に注意喚起するチラシと、珠野市で殺人事件が起こった時期が一致した。全国的なニュースにならなかったみたいで、新聞の地域別の記事でしか扱われていなかった。あ、昨日残業したのは、新聞記事を調べていたからね。しかも、チラシと殺人事件の時期は、陣野二郎が珠野にいた時期とも一致する』  電話の向こうから聞こえる息遣いが、歩行のリズムみたいに感じる。一希は電車を降りて歩いているようだ。 『今日は東京に行って、新聞の地域別の記事を調べていた。珠野の殺人事件と似た事件が、確かに東京でも起こっていたよ。それも、陣野二郎が東京にいた時期と一致した。いずれの事件も、遺体には骨を折るほどの大怪我の痕跡があったって』 「待って! それじゃあ、陣野さんて……」  ずっ……、ずっ……。  薄暗い廊下を這いずる音が聞こえた。義実は身の毛がよだつ心地の悪さを感じた。  廊下に黒い影が座り込み、這いずるように近づいている。  義実は何も考えずに駆け出し、黒い影に手を伸ばした。
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