尻歩きする人 ―― shiriaruki-ller ――

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「二郎、ふざけんな」  義実には身に覚えがない。これはきっと、陣野二郎の人の記憶だ。  戦争で両親を失った二郎は、兄と身を寄せて生きていた。二郎は利き手である右手を骨折し、右手が不自由になっていた。  時が経つにつれ、兄の顔に黒い(もや)がかかって見えるようになった。黒い(もや)が見えるせいか、あるいは他に原因があるのか、言葉にできない衝動を抱えるようになった。  兄もまた、心が荒み、二郎に暴力を振るうようになった。 「日本人なのに右手が使えないのか!」  その一言で、二郎の心を抑えていた何かが壊れた。気がつくと、二郎は兄の右手の骨を折り、マッチを擦ると、痛みに(うめ)く兄にマッチを投げていた。  右利きの人を見ると、その手をへし折った上で火をつけたくて仕方なかった。  何人の命を奪ったのか、覚えていない。人の顔に黒い(もや)がかかって見え、右手の骨を折り火を放ち、逮捕されそうになると、在来線で最も遠い珠野という土地に逃げた。そこでも衝動を抑えることができず、人を殺めた。右手の骨を折るだけだと逮捕されてしまうと思い、他の部位も怪我をさせた。東京と珠野を行来し、上手く逃げたつもりだ。  加齢による体の衰えと認知症には勝てなかった。認知症状が進行しても、足で歩けなくなって尻歩きするようになっても、右利きの人の右手の骨を折りたい衝動は残っていた。老衰で命が尽きても、衝動はおさまらなかった。 「義実、飲み込まれるな!」  すぐそばで、声がした。気がつくと、義実は一希に肩を支えられて廊下に座り込んでいた。 「間に合って良かった。玄関が開いていて、本当に助かった」  一希は安堵の溜息をつき、廊下を這いずる黒い影を見据える。 「一希、待って」  黒い影は、命が尽きても衝動を抑えられない陣野二郎だ。 「陣野さん」  義実は、利き手である右手を黒い影に差し伸べる。 「俺、右利きなんですよ。しかも、些細なことで受診する癖があるので、怪我しても気にしないです。だから、陣野さんも気にしないでやっちゃって下さい」  黒い影が、義実の右手に絡みつく。  ――あんた達みたいに顔に(もや)が無い大人は、初めて見た。  黒い影は、徐々に人の形になってゆく。色彩は、無い。肌が青白く、白髪の少ない小柄な老人が、両手で義実の右手を包んでいた。この人が陣野二郎。顔に黒い(もや)は無い。  ――俺、もっと早くあんた達に会いたかったよ。  陣野は震えながら涙をこぼす。  一希が小声で何かを唱えるのが、義実の耳に入った。一希が祖父から受け継いだ、荻野の能力だ。  陣野の姿は徐々に薄くなり、やがてすっかり消えてしまった。
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