尻歩きする人 ―― shiriaruki-ller ――

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「一希、年度末まで介護高齢課だったな」  四年制大学で司書免許を取得した一希は、入庁してすぐに介護高齢課に配属された。義実と入れ違いで、この春に図書館に異動した。 「純子さん、課長ともやり取りしてくれて、引き継ぎの残務処理ということで俺も“はくあい”の件を担当することになった」  地元の底辺高卒の義実の脳内で処理できる内容ではなかった。  この後、一希が詳しく説明してくれた内容を整理すると、こうなる。  約半年前、「はくあいホーム珠野」の施設長になったばかりの愛歌が、介護高齢課の窓口に相談に来た。対応したのは一希だったが、内容の重さから、純子も担当することになった。  当時の愛歌の相談内容は「陣野(じんの)二郎(じろう)という入居者が、職員に怪我を負わせ、どうすることもできない」というものだった。警察に相談したがまともに取り合ってもらえず、精神科の薬は効果無し。退居させようにも受け入れ先が無い状態だった。  怪我というのは、擦り傷や(あざ)のような軽いものではなく、話を聞くだけで寒気がするような(むご)いものだった。  陣野は、職員の右手の手首を力任せに逆関節にへし折り、橈骨(とうこつ)を骨折させていたのだ。これが原因で右手が使えなくなって離職せざるを得ない職員もいた。以前の施設長が退職したきっかけも、陣野二郎に右手の橈骨を折られたことだった。リハビリが上手くゆかず、利き手である右手で事務作業をするのが困難になってしまったからだ。  陣野は認知症がかなり進行しており、身体拘束を行っても力任せに拘束を解いてしまったり、車椅子に乗っても滑り台のように自ら滑り落ちる癖があるため、他の入居者と距離をとって畳のスペースで尻歩きをさせることしかできなかった。入居者の手首を掴むことはあっても怪我をさせなかったのが幸いだった。  介護高齢課で聞き取り調査を行い、調査結果を報告する直前、陣野二郎は亡くなった。もともと心臓が弱く、死因は老衰による心不全だった。  ここまでが、昨年度末までに一希が関わった、「はくあいホーム珠野」での出来事。  愛歌は今日、義実にこう話したのだ。  ――陣野さんが亡くなった今、職員が右手首の骨を折られてしまうんです。誰がやったのかわかりません。あんなに力任せに怪我をさせられる人、今の施設(うち)にはいません。
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