尻歩きする人 ―― shiriaruki-ller ――

5/12
前へ
/12ページ
次へ
 幼少期のことは、断片的に覚えている。  父親は、いなかった。母親はいたが、墨で塗り潰されたようで、顔のパーツすら見えなかった。  母は泣き喚きながら、自分の頭を壁にぶつけていた。警察が来ると、子に暴力を振るわれる、とすがりついて訴えたが、相手にされなかった。  月のない夜、義実は母に車で、山奥に連れてゆかれ、奈落の底のような穴に突き落とされた。  見えないが、感じた。穴の底から伸びる無数の手が、義実を絡め取ろうとしていたことに。  気がつくと、義実は病院のベッドで寝ていた。  母親は自宅に戻って自殺したらしい。後で聞いた話だが、「義実に脅されて自殺させられる」と遺書を残したらしいが、重要視されなかった。  義実を助けてくれたのは、荻野の老人だった。日頃から山奥のあの場所を気にしており、あの夜は嫌な胸騒ぎをしてあの場所に行ったらしい。自力で穴から出られない義実を見つけ、すぐに警察に通報したお蔭で、義実はほぼ無傷で助け出された。  身寄りのなくなった義実は、荻野家で育てられることになった。これまで学校に通っていなかった義実は、初めてランドセルを買ってもらって登校した。自分が8歳の小学2年生だと初めて知った。荻野の家族に迎えてもらえた。  荻野は由緒ある家だった。平安時代の先祖は、朝廷に仕える身分でありながら閻魔大王にも仕えていたと噂があったらしい。江戸時代になると、視覚障害のある国学者が書物の分類を行ったとかで、功績を残した。  今も荻野家は、平安時代の先祖の能力を継いでいる、と義実は感じている。事実、義実が黒い(もや)を見ることに荻野家の人達はいち早く気づき、祖父となった老人は、特に親身になって処世術を教えてくれた。  祖父は4年前、肺癌で亡くなった。  義実は荻野の血筋の人間でないが、自分を救ってくれた荻野を守ることが自分にできる恩返しだと思っている。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加