尻歩きする人 ―― shiriaruki-ller ――

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 深夜まで作業をしていたのに、一希は朝早くに家を出発していた。  義実は変わらず、仕事。始業してすぐに「はくあいホーム珠野」の施設長、小野愛歌から電話がかかってきた。 『……昨日はご足労をおかけしました』  元気のない声を聞いて、義実は、顔に黒い(もや)がかかる愛歌を思い出した。一希や純子、入居者、職員には、愛歌の顔がどのように見えているのだろうか。 『昨日休みだった職員から、新たな話を聞いたんです。すぐにでも報告しようと思いまして』  介護施設はシフト制の勤務だ。昨日出勤でなかった職員の話を聞くことはできなかったから、連絡をもらえるのはありがたい。 「ありがたいです。で、どんな話ですか?」 『それが……』  愛歌は、ためらってから口を開いた。 『夜間帯に廊下を這いずる音が聞こえると』 「もはやホラー!」  義実は電話口でツッコミを入れてしまった。 『そうなんです! ホラーなんです! しかも、今夜夜勤予定の職員が風邪で欠勤なので私が代わりに夜勤をやることになっちゃったんです! でも、誰かがけがをするのは這いずる音がした後だから、私が現場を突き止めないと』  愛歌もヒートアップして電話口で声を張ってしまう。 「小野さん、(ひるま)も仕事してるんでしょう? 体が持ちませんよ」 『でも、他にできる人がいないから……頑張ります』 「……無茶です!」 『うう……すみません』  愛歌は涙声になって電話を切った。 「“はくあい”だったの? 何だって?」  純子に訊かれた。 「夜中に這いずる音が聞こえるそうです」 「もはやホラー!」  純子も同じ反応だった。
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