尻歩きする人 ―― shiriaruki-ller ――

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尻歩きする人 ―― shiriaruki-ller ――

 珠野(たまの)市役所介護高齢課の窓口を訪ねてきた女性は、蚊の鳴くような声で話し始めた。 「私が働いている介護施設のことですが……」  窓口対応の茂木(もてぎ)義実(よしみ)は、全神経を研ぎ澄ませて、女性の言動を記憶しようと努める。 「すみません。私は小野愛歌といいます」  女性は名刺を出して見せてくれた。  高校を卒業して7年目、今年で25歳になる義実は、これまでの業務で培った笑顔を愛歌に向け、もう一度、名刺証に目を落とした。  愛歌の肩書きは介護施設の施設長兼看護師。職場は「はくあいホーム珠野」。 「小野さんは、看護師さんなんですね」 「ええ。もう35歳ですが、若い部類に入るみたいで、頼りにはされていませんが」  愛歌は、名刺入れをバッグに戻しながら答えた。腕時計は右手につけていた。 「以前の施設長が退職して半年経ちますが、慣れないことばかりで……実は、入居者様のひとりが……以前も相談させて頂いたのですが……今度は別のかたが」  本題に入り、歯切れが悪くなった。愛歌は話しづらそうに俯く。  義実は、愛歌の顔の変化を注視する。厳密には、顔を(おお)う黒い(もや)に、だ。 「……入居者や職員が相次いで怪我をしてしまい、休職者も退職者も複数名出ているのです」 「……そうでしたか」  思考が脱線してしまい、義実は曖昧に相槌を打ってから詳しい話を聞くことにした。  愛歌の顔の周りには、薄い(もや)が漂っている。色が黒色というだけであり、負の感情は読み取れない。(もや)に絡みつく感情には、夫と義両親に愛され、今の仕事を心配されている様子がうかがえた。  義実は昔、相貌失認を疑われた。  相貌失認とは、人の顔が認識できないという症状である。脳血管障害や外傷、脳炎などによって現れることがある。  義実の場合、人の顔を覚えることに苦労はしない。だが、物心ついたときから、多くの人の顔に黒い(もや)がかかって見えるようになっていた。人によって(もや)の濃さは異なり、(もや)がかかっていても顔のパーツがわかる人もいるが、特に成人は顔が認識できないほど墨で塗りつぶされたような(もや)がかかっている人が多かった。  そんな義実が公務員となってごく普通の生活を送っているのは、実母に棄てられた義実を拾ってくれた、今の家族のお蔭である。
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