Act5.「S先輩」

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Act5.「S先輩」

「う、わっ」  体が大きく揺れ、椅子の上から落ちそうになる。わたしは慌てて机にしがみ付いた。大きな地震でも起きたのかと思ったけれど、わたし以外は揺れていない。  働かない頭でぼーっとしていると、デスクのパーテーションの向こうから、小さな顔がひょっこり覗く。 「マリーさん、居眠りしてましたね?」  同じ部署の後輩A子だ。A子は意地悪なにんまり顔で“マリー先輩”こと、わたしを見ている。……わたしはどこか、既視感を覚えた。   「寝てないよ。ちょっと目をつむってただけ」 「嘘ばっかり、涎ついてますよ」 「そっちこそ嘘ばっかり」  少しも動じないわたしに、A子は悔しそうに唇を尖らせる。わたしはA子の反応を軽く受け流して、パソコンの画面を見た。時刻は19:45。今週中に仕上げなくてはいけない企画書は、ほぼ完成していた。あとは見直してちょっと整えるくらいで良いだろう。流石わたし、偉い。 「……さ、帰ろうかな」 「お疲れ様でーす。あ、この後残ってるメンバーで飲みに行きますけど、マリーさんは?」 「いや、遠慮しておく」  寝起きだからか、大分疲れているのか、意識や体の感覚がぼんやりしていた。もしかしたら風邪の引き始めかもしれない。こんな日は早く帰ってゆっくりしたいと思った。  誘いを断ったわたしに、A子は何故かニヤニヤと含みのある笑みを浮かべ、生クリームたっぷりのパフェみたいな甘過ぎる声で言う。 「もしかして、デートですかあ?」  この後輩は何を言ってるんだ。生憎わたしにそんな相手はいない……と呆れた目をしたわたしの肩に、何かが乗る。それは、氷のように冷たい手だ。わたしはぞわりと背中が粟立つのを感じた。 「そうそう。これからデートなんだ」 「あーS先輩! 堂々社内恋愛ですかあ? お二人とも、明日遅刻しないでくださいよお」  わたしは自分の隣に立つ男と、キャーと色めき立つ後輩を、完全に蚊帳の外で見ていた。中心にいるのは間違いなくわたしだというのに、遠い世界の出来事に思える。スクリーンの中の映画を見ているみたいだ。 (……ああ、そういえば、そうだった)  わたしはようやく思い出す。  この男、Sは自分の憧れの先輩で、つい先日思いが通じ合い恋人となったのだった。そして今夜は彼と夕食を共にする約束をしている。彼は大好きな恋人。わたしはこれから楽しいデート。と、自分に言い聞かせながら、帰宅準備を整えた。  Sと共に外に出ると、気怠い七月の熱帯夜に迎えられる。 「あの、先輩。夕食はハンバーガーでもいいですか? ポテトとソフトクリームが無性に食べたくなっちゃって」 「うーん……もっとちゃんとしたところで御馳走するよ。いい大人なんだからね」  優しく何でも望みを叶えてくれる恋人のSが、珍しく嫌そうな顔をする。だからわたしはそれ以上何も言えず、大人しく彼に連れられて洒落たカフェバーに入った。  どうして大人だと、ファーストフード店でソフトクリームを食べてはいけないのだろう。ハンバーガーだってポテトだって、とても美味しいのに。 「ここのペスカトーレ、女性にすごく評判なんだってさ」  フォークに控えめに巻き取られた半口分が、Sの小さな口元に運ばれていく。静かでゆっくりとした動作は、空腹を知らないようだ。食べる音は全く聞こえない。  とても落ち着いていて上品ではあるけれど、美味しそうには見えなかった。嗜みの一つとして食の形をとっているみたいな。パスタがただの紐みたい。 (わたしは、美味しそうに食べる人が、好きなのかもしれないな)  食欲が湧かず手元のフォークをひたすらクルクルしていると、店員が揚げたてのフライドポテトを運んできた。どうしてもポテトが気になって追加したのだ。  皮付きで厚切りのそれには、トリュフ塩がかかっているらしい。期待していたものと違いがっかりするけれど、どんなにカッコ付けていても、お腹の奥をくすぐる匂いはやっぱりポテトである。  わたしは卓上にある、コーヒー用の砂糖瓶に手を伸ばした。Sが怪訝な顔をする。 「マリーちゃん、何をしているんだい?」 「ポテトに砂糖をかけると、意外と美味しいんですよ」  あれ。わたしは何故、そんなことを知っているのだろう?  つい最近、誰かから教えてもらった気がした。  わたしは砂糖まみれのポテトをつまみ、口に放り込む。甘じょっぱい味に痺れて、“目が覚めた”。
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