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――目の前には、蛍光灯の並ぶ天井。どうやらわたしは、硬いどこかに仰向けになっている。金縛りにあったみたいに動かない体。なんとか首だけ持ち上げ辺りを窺うと、わたしが乗せられているのは黒光りするテーブルだと分かった。テーブルには一定の間隔をあけて、水道が設置されている。奥には粉っぽい黒板が見えた。
そこはジャズの流れる薄暗いカフェバーなんかじゃなくて、独特な雰囲気の理科室だ。
これから解剖されるカエルみたいに、無防備に横たわるわたしを、Sの無機質な微笑みが見下ろしている。
「せ、んぱい……」
「眠り姫は眠っているから美しいんだよ。おはよう、マリーちゃん」
もう疑いようもない。この人は、普通じゃない。
「あなたは、誰なんですか?」
「君の会社の先輩で、恋人だろう? 優しくて爽やかでスマートな理想の男性……といったところかな?」
よくもまあ、自分でそこまで言えるものだ。けれどSはまるで他人事のような口ぶりである。爽やかさとは程遠い、底知れぬ薄気味悪い男。
わたしに何をするつもりなの? なんて、結論を急ぐことはしない。今は少しでも時間を稼ぎたかった。
わたしは目の前のナニかを刺激しないよう、小さく視線を動かす。廊下に続くドアは閉ざされていた。鍵が掛かっているかどうかは分からない。もし悲鳴を上げて、マコトが来てくれたとしても、中に入れなかったら助けようもないだろう。……それに、こんな危険な状況に彼を巻き込んでいいのだろうか? でも、彼だけが頼りだ。
「誰を探しているんだい? ああ、いや、言わなくてもいいよ。あの少年だね」
「……マコトくんは、どこに居るの?」
まさか彼に、何かしたのだろうか。
「知らないよ。そもそもこの世界に居る筈の無い、部外者なんだからね」
Sは舌打ちし、歪な表情を浮かべる。その顔はこの世の邪悪を凝縮したかのような、深い闇を感じさせた。
邪悪が、わたしに迫ってくる。わたしはまだ動けない。覆いかぶさる彼の肌からは、ぞっとする冷気が漂ってくる。
「本当はもう少し、ごっこ遊びを楽しむ予定だったんだけどね。また邪魔が入らない内に済ませてしまおう」
Sの顔がわたしに近付いてくる。わたしは目を逸らすことも出来ず、その瞳に捕らわれた。どうして今まで、その不思議な色に気が付かなかったのだろう。彼の目は何色でもなく、何色にでもなれる。わたしがこの世で一番恐れている鏡にそっくりだった。
Sの瞳に、わたしの姿が映し取られ、吸い込まれていく。脳が、心臓が、自分の中のありとあらゆるものが、彼に引きずり出されていく。わたしは呼吸も忘れて、生きていることも忘れそうになり――その時だった。
けたたましい音と共に、ドアを蹴破って誰かが飛び込んでくる。バタンと床に倒れるドア。窓ガラスが砕け散る音は、繊細で美しい音色に聞こえた。その誰かとは考えるまでもなく、当然マコトである。
「おい、無事か!」
ヒーローはギリギリに登場するという定説が今、証明された。
「マコトくん!」
わたしもヒロインさながらに彼の名を呼ぶ。その名を口にすると、引きずり出された自分が一気に戻ってきた。
先程のまやかしの世界でもそう。彼は、わたしが自分を取り戻すきっかけになってくれる。
マコトを見て、獣の如く牙をむき出しにするS。「邪魔をするな」と唸り、マコトに飛びかかっていった。
成人男性と男子中学生では体格差がある。わたしは「危ない!」と咄嗟に目をつむり……かけて、見開いた。Sがマコトに触れる寸前、その体は透明な壁に跳ねのけられたように後方に吹っ飛んだのだ。少年漫画のバトルシーンにありそうな光景に恐怖心も吹っ飛び、わたしはポカンと、自分に駆け寄るマコトを迎えた。きっと凄く間抜けな顔なのに、マコトは笑ってくれない。
マコトの口が声にならない何かを唱えると、わたしの体を縛り付けていた見えない糸が断ち切れる。Sによる呪いを彼が解いてくれたのだろう、なんて漠然と理解できるくらいには、この世界は完全にオカルトである。
わたしは軋む体を慎重に起こした。硬いテーブルで寝ていたからか、あちこちが痛い。
「マコトくん、ありがとう」
「すまない、俺が油断していたばかりに」
眉を下げ、シュンとするマコト。わたしは胸が締め付けられる。
……勿論それどころで無いのは百も承知だ。壁に凭れてぐったりしているSが、いつ起き上がるか分からないのだから。
「……アイツの目が覚めない内に、早く目的の場所に行こう」
マコトの言葉に、わたしは頷き、その手を取った。
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