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家庭科室は理科室の近くには無かった筈なのに、理科室を出たわたし達はあっという間にそこに辿り着いていた。本当に一瞬で、どこをどう歩いてきたかも思い出せない。
でもそれは、立て続けに起きている怪奇現象の一つなどではなく、わたしの中にある“問題を先送りにしたい”という気持ちが作った錯覚のような気がした。
家庭科室に入ると、嫌な気配にぞわりと総毛立つ。淀んだ空気がまるで毒みたいに体を蝕んでいった。入口のところで立ち止まり、動けないでいるわたし。マコトは軽く繋いでいた手を、ぎゅっと握る。
「大丈夫だ。俺が付いてる」
その声は驚くほど優しく、力強く、わたしは泣きたくなった。目の前の少年は自分より一回り以上も年下だというのに、大人と子供が逆転したみたいだ。
……思えばずっとそうだったかもしれない。マコトは年相応の少年の顔を見せることもあるが、大体は落ち着いていて、余裕綽々で、飄々としていて、何でも知っているみたいで……わたしよりずっと大人だった。
「うん、大丈夫」
わたしはその手を両手で握り返し、マコトを真っ直ぐ見て、覚悟が出来たことを伝える。するとマコトは不意を突かれたように目を丸くし――その顔をぎこちなく固まらせ、そっぽを向いてしまった。
「近い」
とぼやき、わたしの手をパッと振りほどくと、さっさと先に行ってしまう。その耳に差した赤色を見て“やっぱり子供だな”と安心した。その反応に、わたしの方が何倍もアレな状態だけれど。
わたし達は家庭科室の奥にある小さな部屋――家庭科準備室のドアを開けた。不思議と鍵はかかっていなかったが、もうそんなことで驚くわたしではない。
家庭科準備室の真ん中で向かい合っているのは、布の掛けられた二枚の板。合わせ鏡である。わたしはその存在に躊躇するが、マコトは臆することなく近付いていき、ちょいちょいと手招きする。呼ばれたからには行くしかない。
「マコト君、どうするつもり?」
「いいから、ここに立て」
わたしの肩をがしっと掴み、二枚の鏡の間に押し込むマコト。
「え、嘘でしょ? ちょっとちょっと、」
涙目になるわたしの前で、無慈悲にはがされていく布。わたしは目を背ける間もなく、鏡を見て、鏡に見られた。
そこに居るのは蒼白な顔の自分と――やはり、恐ろしい形相の少女の姿。
わたしはその場から飛びのき、マコトの背に隠れた。大丈夫、Sから難なく自分を助けてくれたマコトなら、この“悪霊”もどうにかしてくれるだろう。きっと大丈夫、もう大丈夫……。
わたしはいつの間にか、マコトに絶大な信頼を寄せていた。まだ少しの時間を共にしただけだというのに、彼は誰よりも、自分自身よりも信じられる存在になっていた。だからこそ彼が次にとった行動は嘘みたいで、わたしは衝撃のあまり頭の中が真っ白になる。
マコトはわたしを引っ張り、鏡の前に押し戻したのだ。わたしは目の前の悪霊より何より、マコトのその行動で頭がいっぱいになり「どうして」と声を震わせる。彼はわたしの味方では無かったのだろうか……? でも、振り返った先のマコトは裏切り者には見えない。いつもの、少し意地悪な優しい顔をしている。
「ちゃんと、向き合いな」
マコトは諭すようにそう言った。それは穏やかな響きだが、有無を言わせない強い力を秘めている。わたしは彼を見つめ、その真意を探り……溜息を吐いた。わたしにこの少年の考えていることが分かる訳ない。それにマコトが言うなら、きっとそうすべきなのだ。
わたしは目を細め、出来るだけ直視しないよう、視界の端で鏡を見た。瞼とまつ毛の間で、不気味な少女の人型がぼんやりと浮かんでいる。「こら、ちゃんと見ろ」とマコトに促され……わたしは遂に、その恐ろしい姿を真正面から捉えた。
そこにあるのは、忘れもしない友人の変わり果てた姿だ。
懐かしいセーラー服。丈の短すぎるスカート。……記憶の中の華やかな少女からは程遠いけれど、見れば見るほど彼女でしかない。窪んだ暗い目がわたしを見ている。乾いた唇が、何かを紡ぎはじめる。
(ああ、こわい、こわい、聞きたくない!)
行方不明になったかつての友人が、見る影を僅かばかり残した凄惨な姿で、わたしに何かを伝えようとしている。何を言われるのだろう? ヒシヒシと感じる強い念からは、ちっとも良い想像が出来なかった。恨み言くらいなら受け入れよう。でももし道連れにしようとしてくるなら、断固拒否しなければらない。
「た――け」
掠れた声。上手く聞き取れない。
「たす――け」
もしかして“助けて”だろうか?
友人は行方不明になってからこれまでずっと、鏡の中で孤独に苦しみ、こんな姿になっても助けを求めていたのだろうか? だとしたら彼女を恐れ、避け続けてきたわたしはどれほど残酷だっただろう。
彼女の言葉に敵意や悪意が無いという事実を知ることで、自分の惨さを思い知らされたくなくて、わたしは耳を塞ごうとする。しかしその手はマコトに捕らえられた。全然力なんて籠っていないのに、絶対に振りほどけない。
そしてわたしは、鏡の少女の言葉を、聞いてしまった。
――それは、全く想定外のものだった。
「たすける、から」
「え?」
思わず声を上げてしまう。助ける? 誰が、誰を?
「ぜったい、たすけるから」
その言葉が耳から入り、頭で分解され、全身に巡る頃。とても深いところで、霜柱を踏んだ時のような音がした。わたしの中で何かに皹が入る。
「絶対、助けるからね、“ ”」
ああ。その空白を埋めるのは……わたしの本当の名前。
わたしは鏡に歩み寄り、少女と重なり合って映る自分の姿を見る。かつて憧れていた大人の女の顔……それが、あやふやにぶれ始めていた。わたしは目を閉じ、奥深い所に隠されていた真実を、手繰り寄せる。
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