Act1.「消えた友人」

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「う、わっ」  体が大きく揺れ、椅子の上から落ちそうになる。わたしは慌てて机にしがみ付いた。大きな地震でも起きたのかと思ったけれど、わたし以外は揺れていない。  働かない頭でぼーっとしていると、デスクのパーテーションの向こうから、小さな顔がひょっこり覗く。 「マリーさん、居眠りしてましたね?」  同じ部署の後輩A子だ。A子は意地悪なにんまり顔で“マリー先輩”こと、わたしを見ている。    マリーというのは、わたしの本名ではなく愛称だ。多忙の新人時代、お昼のパンを買う暇もなく、社内で配られるお土産のお菓子を昼食にして『パンがなくてもお菓子がある』と言っていたことが、かの有名なマリー・アントワネットを彷彿とさせたらしい。同期も先輩も上司も、後から入ってきた後輩にさえ、もれなくマリーと呼ばれるようになってしまった。 「寝てないよ。ちょっと目をつむってただけ」 「嘘ばっかり、涎ついてますよ」 「え! うそ!?」  わたしはギョッとして口元に手をやるが、そこに湿り気はない。A子は小動物を思わせる大きな目を細めて「引っかかったあ」と無邪気に笑っている。わたしは胸焼けにも似た感覚を覚えて、わざと何の反応も示さず目の前のパソコンに目をやった。  パソコンの端に表示されてる時刻は……19:45。寝る前の自分が頑張っていたのか、仕事の進捗は良好。今日はそろそろ切り上げて、駅ナカでちょっと良いお惣菜を買って帰り、ドラマを見ながら晩酌をしよう。半身浴とパックをして、アロマを焚いてぐっすり眠ろう。 「そろそろ帰ろ~っと」 「お疲れ様でーす。あ、この後残ってるメンバーで飲みに行きますけど、マリーさんは?」 「いや、遠慮しておく」  一瞬、今日は華の金曜日だっただろうか? と思ったが、そんなことはない。まだ週のど真ん中である。明日の朝、同僚の何人かがグロッキーな顔でデスクに突っ伏している姿がありありと想像できた。そしてわたしはそれを、やれやれと呆れた目で見ているのだろう。  わたしは廊下に出て、ぐっと伸びをする。と、連動してあくびが出た。顎が外れる寸前までの気持ちの良いあくび。滲んだ涙を指で拭い……嫌な感触に“しまった”と顔を顰める。  恐る恐る手を見ると、指にはアイシャドウとアイライナーがべっとり付着していた。どうせ先程の居眠りである程度崩れていただろうが、流石にこれは酷過ぎる。……けれど、夜の会社のトイレでメイク直しをする気が起きなかった。苦手なのだ、鏡が。明るい朝に、出社してから化粧をする人々に混ざらなければ、鏡と向き合えない。 「おや、マリーちゃん。今帰りかな?」  何もないところから突如出現したような、気配の無い声。わたしは飛び跳ねる勢いで振り返った。  そこには背の高い痩身の男性……Sが立っている。彼はわたしの新人時代の教育係で、マリーというあだ名の名付け親でもあった。  整った顔立ちと人あたりの良さから女性社員に人気がある彼は、教育係を終えても何かとわたしを気に掛けてくれて、世話を焼き、ちょっかいも出してきた。だから……わたしが彼に憧れ、自分に都合の良い解釈を抱き始めたのは、自然な流れだといえる。 (なんでこのタイミングで現れるかなあ~っ)  こんなボロボロの状態を、世界一見せたくない相手だ。 「残業かい?」と微笑む彼に、わたしは両手で顔を覆い「はい、ええ、イエス」と答える。Sは「相変わらず面白い子だね、君は」と笑った。 「もし良かったら、一緒に帰らないかい?」 「……先輩は、皆と飲みに行かないんですか?」 「うん、僕はね。マリーちゃんと二人がいい」 「あ、う……え?」  わたしは彼の凄まじい威力を持った爆弾発言に、あ行しか喋れなくなる。恥ずかしさと、それ以上の喜び。しかし度を越した感情は居心地が悪く、不快感にも似ていた。  沸騰したヤカン状態のわたしはきっと、目も当てられない惨状に違いない。 「は、わ、ちょ、……っとお手洗いに行ってきます!」  と、早足でトイレに逃げ込む。後ろではSの爽やかな笑い声が響いていた。
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