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Act2.「不思議な少年」
七月の夜道。都会の街中では、虫の声も涼しい風の囁きも、あまり聞こえない。けれど湿気を含んだ重い匂いだけが、確かに夏を感じさせた。
「アクアパッツァ、美味しかったね。お店の雰囲気も良かったし」
「はい」
「まだまだオススメのお店があるんだ。今度はワインとタパスが美味しいところとか、どう?」
「はい」
わたし達は洒落たカフェバーで夕食を共にした後、駅に向かって歩いていた。トイレでの一件を引きずるわたしに、Sは嫌な顔一つせず接してくれている。声、口調、言葉選び。駄目な所が少しも見当たらない。少女漫画や恋愛ドラマに出てくる、かっこいい先輩そのもの。だからわたしも、この人が好きだ。
……好き、だ。きっと、恐らく、多分。
しかしどこが好きなのかと自問すると、途端に根本から揺らいでしまう。本当にわたしはこの人が好きなのだろうか? 何故? いつから?
隣に立つSは平均より背が高く、嫌味にならない程度に品良く、清潔感があり、スレンダーだが筋肉質で引き締まっている。肌は女のわたしが羨ましくなるくらい綺麗で、髪もちゃんと整えられていた。目は左右均等で、鼻と口は一つずつ。文句の付け所がない真っ当な好青年のテンプレートだ。
だから好きなのかもしれない。でも、だから分からない。一体彼のどこが、わたしにとって特別になり得るのか。
……引く手数多だろうSに対して、なんて烏滸がましいことを考えているのだろう。わたしは身の程知らずを自覚し、申し訳なくなる。それでもどんどん心が冷めていくのは止められない。だからSに少し強い口調で名前を呼ばれた時、全て見透かされたような気持ちになり、思わず全身を強張らせた。
「マリーちゃん、大丈夫かい? 心ここにあらずだけど」
「えっと、はい、ごめんなさい」
彼はその謝罪を、話を聞いていなかったことに対するものだと思ったのか、少しふざけて「こら」とわたしを小突く。わたしは「はは」と乾いた笑いでそれを受け止め……ふと、彼の背後に立つカーブミラーと目を合わせてしまった。
鏡の中の夜の街。自分とSのすぐ後ろに居る、“血濡れの女”。
言葉にするとB級ホラーのチープさがあるが、実際に目にすると洒落にならない。その女は先程のトイレで見かけた姿と同じ、藁のような髪を垂らして、恨みがましい目で、わたしを睨んでいる。丈の短い服からはスカスカの枯れ枝が二本、生えていた。
背後を振り返り、実在するかを確かめることなど出来やしない。わたしはバッグを抱きしめ走り出した。Sが驚いた声でわたしを呼ぶけれど、今は応えていられる余裕なんてない。ただ、一刻も早く逃げなくてはいけないと思った。こんな風に立て続けに幻覚を見るなんて、おかしい。生物としての生存本能が、迫りくる危機を察知していた。
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