第一章 

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「おはよう、咲原さん。ちょっといい?」 「あっ、はい」  事務所に入ると、俺が出社するのを待っていたかのように、主任が声をかけてきた。上着と鞄をデスクに置き、主任の後を追う。  どうやら向かっているのは、倉庫横の会議室らしい。そこなら利用率も低く話を聞かれる心配もない。  コンクリートで覆われた、長い廊下に響く、ヒールの音。交わされることのない会話。ピンと張り詰めた空気。  ますます悪い予感が膨れ上がり、両足に足かせがついているかのように、足取りは重い。 「入って」  初めて入る倉庫横の会議室。建物の端に位置し、かなり狭い。会議用テーブルにパイプ椅子が四脚。牢獄のような窓が申し訳程度についている。  主任の右斜め前に座り、緊張からか、自然と脚を閉じ、背筋を伸ばす。 「まず、昨日はいきなり帰ってごめんなさいね。不快な思いしたわよね」  主任は、顔の前で手を合わせ軽く頭を下げる。 「いえ、不快だなんて。驚きはしましたけど、不快には思っていません」    膝の上で、拳に力が入る。 「ずいぶんと、久しぶりだったから……」 「久しぶり?」  主任は、テーブルの上で組んでいた手を組み替えす。 「気になってるわよね、昨日のこと」 「……そうですね」 「先に断っておくけど、はっきり言っていいのね?」  覚悟はできてるが、改めて確認されると即答できない。 「はい……、お願いします」 「わかったわ」  あらゆる音をかき消す、激しい雨。 「あなたの家──、音がなかったの」  音?  それが、答え? 「あのう、それって、静かだったと言うことですか? うちの子どもはあまり泣かないですし、俺もこの通りおしゃべりな方ではないですし。賑やかな家族ではないですが……」 「違うの。そういうことじゃなくて、あなたの家に入った瞬間、全ての音が消えたのよ。風の音も、さっきまで聞こえていたテレビの音も里来くんの声も全て消えたの。わかりやすく言うと、そうね……防音室に入ったみたいかしら」  どういうことだ。それがどうして、家に入ることを拒否するまでのことなんだ?  「僕はてっきり、幽霊が見えたとかだと思っていたんですけど……」 「幽霊はいるわよ」 「はあ?」  思わず、失礼な言葉を口走る。 「す、すみません。ちょっと驚いてしまって」  テーブルの上で手を握ったり伸ばしたりと、自分の発言に動揺し狼狽える。 「はっきり言わない私が悪いのよね。ちゃんと説明するわね」  先程までの強い雨が嘘のように止み、静まり返る室内。 「私ね、小さい頃、幽霊が見えてたの。それが、大人になるにつれて見えなくなって、二十歳を過ぎる頃には何も感じなくなってたわ。でもね、あなたの家に入った途端、今まで押さえつけてた霊感が一気に解放れたみたいに、全身で恐怖を浴びたのよ」  あの時、主任から感じた恐怖の臭いは正しかったのか。   「家に足を一歩しか入れていないのに、命の危険を感じるくらいの殺気を感じたわ。説明するのは難しいけど、静かな殺気?っていうのかしらね。とにかく、音が消えたの。これ以上、この家に入ることは許されないように感じたわ。こんなこと初めてで、怖くなっちゃって」  眉をしかめながら話す主任を見るに、相当な恐怖を肌で感じたのだろう。 「咲原さんは、家にいて何も感じたりしないの?」 「俺を含め、家族三人……何も」 「そう。あれだけの殺気、何か体に影響を及ぼしてもおかしくないわよ」  主任は顎を擦り、上を向く。 「あのう……」  主任になら、話しても大丈夫だろう。 「実は、ちょっとおかしなことはあるんです……」 「おかしなこと?」  上を向いていた視線を、俺に合わせる。   「はい。見覚えのない物が家に落ちていたんです」 「物が?」 「引っ越してきた当日には、薄汚れたうさぎのぬいぐるみ。これは恐らく、手縫いです。そのあと、一ヶ月くらい経ってからなんですが、同じ部屋に、針と糸が見つかりました。そこは子ども部屋で、毎日掃除をしているので、元から落ちていたとは到底思えません」  主任は、「え」の口で声が出ないまま眉間にシワを寄せている。 「これと関連があるのかは未だ不明なのですが、友人二人を家に招いた時、写真を撮ってくれたんです、スマホで。そしたら、俺たちが写っている全ての写真で異変が見つかったんです。これを心霊写真というのか分かりませんが……」  あらかじめ、新嶋に送ってもらっていた写真を主任に見せた。 「ちょっと、これ……」  主任は写真を見た途端、こちら側に押し付けるようにスマホを滑らせた。触れたくもないという、強い嫌悪感が現れていた。 「完全に心霊写真じゃない。顔色もおかしいし、この口よ口。なんなのこの口」 「この口なんですが、縫ってあるように見えませんか?」  主任は、「はっ」と息を短く吸い、口を手で覆う。 「針と……糸」 「やっぱり主任も、そう思いますよね」 「偶然にしてはできすぎよね」  主任は自分を抱きしめるように、両腕を擦る。 「僕もこれに気づいた時、偶然とも思いましたけど、もしかしたらって考えたら怖くなっちゃって。そんな最中に、昨日、主任が……」 「そう……。それは怖いわね」  主任はそれきり黙り込んでしまった。何かを考えているように視線を上にあげ、頬杖をついている。 「ねえ、今の家ってどうやって見つけたの?」  戸田と同様、主任も家に問題があると考えたらしい。 「俺も友人も、家に問題があると思っているんです。主任もやはりそう思いますか?」  両肘をテーブルにつけ、前のめりになる。 「そうね。今のところ、そう考えるのが自然じゃないかしら。実際、身に覚えのない物が落ちていたりするし、私が感じた殺気もそうだし……」 「あのう、結局、主任はあの時、幽霊は見たんですか?」  話しが途中から逸れ、肝心なことを聞けていなかった。 「──女性が立っていたわ。最初はわからなかったけど、音が消えて冷気を感じたの。そしたら、いつの間にかあなたの後ろに女性が……」 「俺の後ろ……」  途端、背中に神経が集中し、いるはずもない気配を感じる。 「そ、それは、どんな女性だったんですか?」 「そうね……。無表情でエプロン姿だったわ。特に何かをしてくるわけではなく、ただただ、あなたの後ろに立っていただけ」  俺はどうしたらいいんだ。 「私の考えをまとめるとね、家に入る前は何も感じなかったから、やっぱり家に問題があると思うの。私は素人だからはっきりとは言えないけど、あれだけの殺気、そのうち、ご家族に何かしらの影響を及ぼしたっておかしくないと思う」  家族という言葉を聞いた瞬間、怖気づき、思考回路が絶たれる。次に出す言葉が思いつかない。 「大丈夫?」 「す、すみません」  一点を見つめていた視線を、主任に合わせる。 「脅かすつもりはないけど、気をつけることに越したことはないと思う」  気をつける……。  見えない敵に、何をどう気をつけろと言うんだ。闇雲に手を出してしまったら、深傷を負うかもしれない。それに、これ以上、事態が悪化する可能性だってある。こちらから仕掛けるのはよくない。  まずは土曜日、木津嵐にこの家について詳しく聞いてみよう。そこで何かわかれば動きようもある。  今の俺には、これが精一杯だ……。      
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