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─7─
「なんだか緊張しちゃう」
奈々未は鏡を見たり、長い袖を引っ張ったりと、落ち着きがない。
「そんな緊張する相手じゃないよ。二人とも優しいから」
「でも、嬉しいな。健太郎に仲のいい同僚ができて」
「まあ、な。そんなことより、美味しいものたくさん作ってくれて、ありがとう」
「ちょっと、気合い入れすぎちゃったかな」
「そんなことないよ。助かる」
奈々未に近づき手を握ろうとした時、
「ととー!」と、朝ご飯のあといつの間にか眠っていた里来が起きてきた。
「おはよう、里来」
抱きかかえると、まだ寝ぼけているのか、俺の肩に顔を擦り付ける。
「寝ててもいいんだぞ?」
「のどかわいた。おちゃのみたい」
「ちょっと待ってて。持ってくるから」
奈々未が冷蔵庫からお茶を持ってくる。
「はい、どうぞ」
差しだすも、甘えているのか自分で持とうとしない。
「飲ませてほしいのか? 赤ちゃんだな〜」
「座って飲みなさい。ゲホゲホしたら大変でしょ」
「いいじゃないか。まだまだ赤ちゃんでいたいんだよな」
そう言うと、奈々未は呆れた顔でお茶の入ったストローつきの容器を俺に渡す。
「はいどうぞ」
里来はストローを咥え、俺の目を見つめながら満足気に、にこっと笑った。その笑顔に心臓を射抜かれ、目尻が下がっているのが自分でもわかる。
奈々未の冷たい視線を感じつつ、里来としばらく戯れていると、インターフォンが鳴った。
「はい。今、開けますね」
二人が来たようだ。里来を抱きかかえたまま玄関へ向かう。
「お疲れー」
玄関を開けると、前回同様、両手に袋を下げた二人が立っていた。
「里来くん……」
里来を見た瞬間、戸田が破顔した。
孫を見るような眼差しに思わず吹き出す。
「戸田、大丈夫か?」
「──かわいすぎる」
そんな戸田に追い打ちをかけるように、里来が「こんにちは」と、微笑む。
戸田は「俺を殺す気か……」と、胸のあたりを押さえる。
「今日は、二人とも来てくれてありがとう。改めて紹介するけど、こちら、妻の奈々未」
「はじめまして。いつも、健太郎がお世話になっております」
つかさず新嶋が「いえいえ。お世話になっているのはこちらの方です」と、頭を下げる。
一通り挨拶を済ませ、リビングへ通す。その間、戸田は里来から目を離すことなく俺の後ろにピッタリとくっついていた。
「こちらへどうぞ」
奈々未が、料理の並んだテーブルへ案内すると野太い歓声が上がった。
「これ、奈々未さんが?」
新嶋は驚いた表情でこちらを見る。
「ああ。作ってくれたんだ」
「つまみのようなものですけど、お口に合うかどうか」
「お口に合います!」
「お前、まだ食ってねーだろ」
つかさず新嶋に戸田からつっこみが入る。そんな二人を見て、クスッと奈々未が笑う。
俺はこの光景を、映画でも見てるかのように、不思議な気持ちで眺めていた。
既に、戸田になつき、抱かれている里来。二人の掛け合いに笑う奈々未。そして、それを見ている俺。
誰がこんなにも穏やかで幸せな日が来ると予想できただろうか。
奈々未と出会ってから今まで、十分幸せだった。なんの不満もない。だが俺は唯一、仕事だけは充実していなかった。一日の大半を過ごす会社での時間が苦痛だったのだ。
そう考えると、前までの俺は、家族だけが拠り所。
それがどうだ。
この、絵に描いたような幸せな光景。信じることが出来ないせいか、どこか、他人事にも思えてしまう。家族を紹介できるような友人ができたことが、今だに信じられない。
この町に来たことは俺にとって、家族にとっても大きな転機となったのだ。
俺たち家族の決断は、決して、間違っていなかったんだ。
「じゃ、まず乾杯しようか」
それからしばらく楽しい時間を過ごし、お腹も満たされた俺たちは、すっかり当初の目的を忘れていた。
ちょうど、十三時を過ぎた頃だった。本日二度目のインターフォンが鳴る。
「はーい」
明るい声で奈々未が応える。
「あっ、今、開けますね」
少し緊張の混ざった声に、今日の目的を思い出す。
「あっ、俺出るよ」
慌てて立ち上がり玄関へ向かう。
「どうぞ」とドアを開けると、少しくたびれたグレーのスーツを着た木津嵐が立っていた。
「ごめん、少し時間過ぎたかな?」
木津の言葉に、数日前のやりとりが蘇る。
すっかり忘れていたが、時間を指定したのは俺だった。
「全然大丈夫だよ。それより、わざわざ来てくれて悪いな」
「いいんだよ。これも仕事の一環なんだから気にしないで」
「あのさ、今日、会社の同僚が来てるんだけど問題ないかな?」
一瞬、驚いたように眉を引き上げたが、すぐ笑顔に戻り、「構わないよ。少しだけ話聞いたら帰るから」
「よかった。じゃ、入って入って」
「お邪魔します」
俺の鼓動は、既に騒がしく動き始めていた。うまく話を切り出せるのか、木津が不愉快になり、怒り出したらどうしようか……。
抑えていたいつもの悪い癖が顔を出し、不安にかられていた。
新嶋と戸田を紹介し挨拶を済ませたあと、木津はさっそく話を始めた。
「咲原君、この家は気に入ってくれたかい?」
「ああ。妻も息子も気に入ってるよ。なあ、奈々未」
「うん。木津君には本当に感謝してる。知らない土地で物件を探すのも不安だったから」
「二人に喜んでもらって、僕も嬉しいよ」
嘘はついていない。
里来も自由に走り回れるようになり、以前より活発になった。奈々未も庭に好きな野菜やハーブを植え、毎日、世話を楽しんでいる。
俺たちは幸せなはずなんだ……。
「ところで、何か困っていることとかない?」
「困ってること……」
戸田と新嶋の顔を見る。
ここしかない。
いいパスが回ってきた。ここで決めるしかない。
「実は、部屋に変なものが落ちていたんだよ」
「変なもの?」
「もしかしたら、前に住んでいた人の忘れ物かもしれないと思って、取っておいてはあるんだけど」
俺の発言に、奈々未が驚いた顔でこちらを見た。
「せっかくだから、聞いてみたほうがいいだろう。気になっていたんだし」
「──そうね」
奈々未は立ち上がり、寝室からぬいぐるみと針の入った箱を持ってきた。
「これなんだけど……」
ゆっくりと箱を開け、中身が見えるよう、差し出した。
「ああ……どうたろ。前に住んでいた家族に、子どもはいなかったと思うんだけど」
少し困ったような表情を見せた木津だったが、嘘をついているように見えない。
「そうか。ならいいんだ」
「じゃ、これ、なんなのかしらね」
奈々未は箱に視線を落とす。
「あのさ、俺たちが住む前、何家族くらいが住んでいたんだい?」
この質問には、明らかな表情の変化があった。歯を食いしばっているのか、こめかみに緊張が見て取れる。
「その質問は、顧客のプライベートにかかわることだから、教えることはできないんだよ」
プライベートか……。
「そうだよな。ごめんごめん」
「でもどうしてそんなことを聞くんだい? どこか不備があったりした?」
なんて答えるか、俺は頭をフル回転させていた。さっきの木津の表情、何かを隠しているようにしか見えない。
「不備とかではないんだ。この家に不満はないよ。ただ、引っ越し当日に不気味なぬいぐるみが落ちていたり、時間が経ってから針と糸が落ちていたりしたから、怖くなってね。侵入者がいるんじゃないかとも疑ったけど、それは考えにくいし。だから、過去に何かあった物件だったらどうしようって不安になってね」
俺は軽い気持ちで、「ハハ」とカラ笑いした。
「なんてこと言うんだよ!」
木津は突然、立ち上がり、怒鳴り声を上げる。
「それじゃ、この家は事故物件だとでも言うのかい? 人が親切にしたらこれかよ。ちょっといい会社に勤めて、家族を持って自分が幸せだからって、僕にそんな失礼な態度をとるのか!?」
木津は顔を赤くし、一気にまくし立てる。
大きな声で反論されたことにより、頭の中は緊張状態になり、次に返す言葉を完全に見失っていた。
そんな口籠る俺に嫌気がさしたのか、
「ちょっとちょっとどうしたの、そんなに大きな声出して。子供がいるんだよ、怖がるじゃないか。それに、失礼なのは君の方じゃないかな?」と、戸田が割って入る。
里来を見ると、コアラのように奈々未に抱きついていた。
「な、なんなんだよ。君には関係ないだろ? ただの同僚が口を挟まないでくれよ」
木津は棒立ちのまま、震える唇を尖らせる。
そんな木津を見ながら戸田は鼻で笑い、「関係ない? 関係ないならここにはいないよ」とダイニングテーブルから俺の方へと近寄る。
「あのさ、咲原は君に話すのを悩んでいたんだよ。親切にしてもらったのに失礼なんじゃないかって。だけど、大事な家族の為に思い切って聞いたんだ。それに咲原の聞き方、そんなに失礼だったか? 事故物件だなんて一言も言っていないのに、その言葉を出したのは君の方じゃないか」
戸田の冷静な反論に、木津は火を噴きそうな程、顔を赤くする。すると今度は下を向き、ぶつぶつと呟き始めた。
様子がおかしい。
「何かあるなら、君も言えばいいじゃないか」
戸田が追い打ちをかける。
「うるさい!!」
「ドン」と片足を踏み鳴らし、木津は叫ぶ。
「お前たちに何がわかるんだ! 全部咲原が悪いんじゃないか! 咲原が!」
「俺が……」
思いもよらない言葉に唖然とする。
木津は俺を指差しながら、
「お前は、僕と奈々未の仲を引き裂いたんだ。ひそかに愛を育んでいたというのに、お前が邪魔をしたんだ! 僕から奈々未を奪ったんだ!」と、飛び出しそうな目玉で、睨みつける。
静まり返る室内。
初めて聞く話の内容。咄嗟に奈々未の顔を見る。
「奈々未……」そう、声を掛けた時だった。
「ふざけないで!!」
今まで聞いたことのない、奈々未の怒声。
「いい加減なこと言わないで! いつ、あなたとそんな関係になったのよ! 話したことだってほとんどないじゃない!」
とうとう泣き出した里来を、「ごめんね」となだめ、木津を、異物を見るような目で睨みつける。
「奈々未、なんてこと言うんだよ。忘れたのかい? 僕が消しゴムを落とした時、君は拾ってくれたじゃないか。そして、手と手が触れ合って、君は照れくさそうに僕に向かって微笑んだ。それだけじゃないよ、僕が体育祭で転んだ時だって、いち早く来て、手当をしてくれたじゃないか。その時だって、僕を見て微笑んだ。今でも、本当は僕を愛しているんだろ? かわいそうに。咲原に脅されているだろう、どうせ」
とんでもない妄想に恐怖さえ覚えたが、完全に頭に血が昇っていた俺は、怒り任せに言葉を吐き出す。
「お前の思い違いだろそんなの! 奈々未は誰にでも優しかったし、体育祭の時は保健係だったから手当をしただけだろ! お前はイカれてるよ! これ以上、奈々未に……俺の大事な家族に近づくな!」
思わず俺は立ち上がり、木津の胸ぐらを掴んでいた。
「咲原! よせ、それはよくない!」
新嶋が走り寄り、後ろから俺の肩を掴む。
「ほら奈々未、こいつの本性を見ただろ。もう我慢しなくていいんだよ、僕は今でもずっと君を待っているんだから、こっちへおいで。さあ、来るんだ」
「離せよ新嶋!」
「ふっ。この家はね、咲原に復讐するために選んだのさ。君が不幸になればいいと思ってね。そうすれば、奈々未はまた俺を見てくれる」
「なっ──……」
「ははははははは」
体をのけ反り、木津は狂ったピエロのように笑いだした。嫌悪が鼓膜を突き破り、全身に浸食する。たまらず俺は、耳を塞ぎ下を向く。
「きゃああああ」
張り詰めていた空気を切り裂くような、奈々未の叫び声。
彼女は震える手で口を覆い、木津を指差している。俺は勢いよく木津の方へ振り返る。
「あ……あああ」
木津の背後から伸びる、青白い手。
口元を覆う。
真っ赤に染まっていた顔は、みるみるうちに青ざめていく。
木津と重なる黒い影。
はっきりとしない様相。
誰もが声を失う。
恐怖を吸い取った重い空気に押さえつけられる。
口元を覆われ息が苦しくなったのか、床を蹴る音が激しくなる。
────
突如、訪れた静寂。
全ての音が消えた。
時計の音、風が窓を叩く音、震える息の音、足が床を蹴る音。
そして──
ゆっくりと『それ』は姿を現した。
タールのような粘度の高い闇から、這い出た『それ』
蛇のようにぬるっと顔を出す。
こめかみから赤黒い血を垂れ流し、飛び出た真っ白な眼球は、木津を捉える。
耳元にぐしゃりと顔をつけ、何かを囁いた。
木津の顔面に張りつく恐怖。
力なく崩れ落ちる。
気がつくと音は戻り、男の姿は消えていた。
「木津!」
目の前で手を叩かれたように正気に戻り、走り寄る。
木津は放心し、一点を見つめ、こちらの呼びかけに反応はない。
「大丈夫か! しっかりしろ!」
戸田が木津の両頬を包むように揺らす。
「……はっ」
息を吹き返したように咳込み、肩で大きく息を吸う。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
突然、ガタガタと体を震わせ、壊れたテープのように何度も繰り返す。
「落ち着け! 落ち着け! 大丈夫だから!」
手を握りながら声をかけ続ける。
後ろを振り返ると、奈々未は里来を必死に抱きしめていた。それを見た俺はすぐ二人に駆け寄り、抱きしめる。
小刻み震える奈々未の体。
「奈々未……」
「な、なんなの……今の……」
「わからない……」
上ずる声を誤魔化すように咳払いする。
奈々未の腕の隙間から里来を覗くと、眠っていた。不思議に思ったが、今はそんなことどうてもいい。里来があの恐ろしい『あれ』を見なかっただけで、十分だ。
「咲原!」
戸田の呼びかけに振り返ると、木津が正気に戻ったようだった。
「木津、大丈夫か?」
「──ああ」
嵐が過ぎ去った後のように静まり返る室内。
未だ鳴り止まず、異常を知らせ続ける鼓動。
腰が抜けたのか、力尽きたのか、床に吸い付くように座り込み、呆然と窓を見た。
──初雪。
ふと、母親のことを思い出した。
里来が生まれた日も、雪が降っていた。
母は嬉し涙を流しながら、何度も奈々未にありがとうと伝えていた。
長年、辛い思いをしてきた母に、嬉し涙がとても似合っていた。
近い内、家族三人で母さんに会いに行こう。
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