第一章 

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─9─ 「じゃ、ゴミお願いね」 「わかった。じゃ、行ってくる。もしかしたら今日残業かもしれないから、わかったら連絡するよ」  ゴミ袋を手に、玄関を出た。  体当たりしてくるような強い風。冬を感じる冷たい風に、思わず肩をすくめる。 「おはようございます」  お隣の仲里さんだ。  引っ越し当日、音について注意された、あのおばさん。 「寒くなってきたわね。あーやだやだ。また雪の季節が始まるなんてね」 「ほんとですね。雪はねの季節になっちゃいました」  当たり障りのない会話で、この場をやり過ごそうかと考えていると、あることを思いつく。  仲里さんは、いつからここに住んでいるのだろうかと。  十三年前の恐ろしい事件の際、既に住んでいたとするなら、詳しい話を聞けるんじゃないだろうか。  しかし、自分の立場で考えれば、あんな事件、忘れたいに違いない。口に出すのも嫌かもしれない。俺が聞くことによって、嫌な記憶を呼び起こしてしまうかもしれない。  ただ、隣に住んでいたとするなら、事件前の家族の様子もきっと見ているはず。なんなら、仲がよかった可能性だってある。  不可解な現象の、直接的解決にならなくても、知っておくことに損はないだろう。 「仲里さんって、いつ頃からここに住んでらっしゃるんですか?」 「そうね。旦那がこの町の出身で、私が二十六歳の時に嫁いだんだから……三十九年前かしら。この家はリフォームしてるから綺麗に見えるけど、実は結構古いのよ」  仲里さんは大きな声でガハハと笑う。  三十九年前なら、確実に事件のことは知っている。  聞いてもいいのだろうか。失礼にあたらないだろうか。気分を害さないだろうか。  こんな小さな決断もすぐにできないなんて、俺はどれだけ情けない男なんだ。話の流れで聞いてみるだけじゃないか。無理矢理聞くわけじゃない。何にも悩むことじゃない。 「あのう、この家で起きた事件ってご存知ですか?」    聞いてしまった。  今のところ、仲里さんの顔色に特段変化はない。 「知ってるわよ。知ってるも何も、離れているとはいえ、お隣さんだったからね。あなた、もしかして知らなかったの?」  意外にも、あっけらかんとした物言いだった。 「はい。数日前に聞いたばかりです」 「そうなの!? 不動産、なにやってるのよ! もうね、何家族もここに越してきては出ていってるのよ。半年以上、住んでた家族、いたかしらね」 「そんなに……」 「あの家族もね、仲良いと思ってたんだけどね」  頬に手をあてながら、俺の家を見上げる。 「あのう、言える範囲で構わないので、事件のこと教えていただけませんか?」 「それは構わないけど、詳しいことは伏せられているのよ。だからね、住民には情報がまわってこなくて。ただ、私はなんとなくこうなる予想はついていたのよ」 「そうなんですか?」  手に持っていたゴミ袋を一旦、地面に置く。 「事件は、旦那さんの日常的な暴力の延長で起こったと思ってるの。旦那さんはね、身なりはいつも綺麗にしていたし、物静かな雰囲気だったわ。だから、とても暴力を振るうようには見えなかったんだけど……ちょっとね、神経質そうだったのよ」 「神経質?」 「あの家族にはね、お子さんが一人いたんだけど、まだ小さいから泣くじゃない? そしたら、怒鳴り声が聞こえたり、奥さんが外に出てあやしたりしてたのよ」 「そんな……ひどい」 「でしょ? 子どもなんて、泣くことが仕事なんだから。そういうのを度々目撃してたから、驚きはしたけど、とうとうやっちゃったんだって思ったわ」  子どもに手を挙げるなんて。  そんなことするくらいなら、なんで子ども作ったんだよ。 「どんな風に亡くなっていたとかは、聞けたんですか?」 「全然。ニュースにもなったんたけど、旦那の暴力が原因としか。田舎って閉鎖的だし、特に、子どもの支援に力を入れ始めて順調に人口が増えてきてた時だったから、役場が隠したがったんじゃないかって、町の人は言ってたわ。子どもの支援を売りにしてるのに、暴力で子どもが死んだなんて大体的には言えないわよね」  確かに町が隠したがるのもわかるが、隠すからこそ、余計な詮索をしたり、間違った噂が広がるのだ。    残念だが仕方ない。お隣さんでもわからないのなら、これ以上、詮索するのはやめておこう。  もちろんあってはならない事件だし、許しがたいが、都会ではニュースにならないだけで、小さな事件はいくらでもある。  小さな町では珍しい事件だが、残念ながら大きな街では、よく聞く事件だ。   「お話聞けてよかったです。何も知らなくて気になっていたので。ありがとうございました」 「全然いいのよ。むしろ、何も答えれなくてごめんなさいね」 「いえいえ、そんな……」  顔の前で軽く手を振り、会釈したあと、そのままゴミを捨てに行こうかとゴミ袋を持ち、歩き出した時だった。 「咲原さん」  こちらに向かって素早く手招きしている。  今度はゴミ袋を持ったまま、仲里さんに近づく。 「ねえ、大丈夫?」と、俺にぐっと近づく。 「えっ?」 「だから、怖いこととか起こってない?」  コソコソと小声でささやく。  唐突な問いに狼狽える。なんて答えるのが正解なのか考えてみたが、こちらの情報を開示することで、得られることもあかもしれないと、少しだけ話してみる。 「実は昨日、クローゼットの上で、イヤフォンがたくさん入った箱を見つけたんです。それに、入居当日にはぬいぐるみも落ちてたり……」  仲里さんは、「ひぃ」と息をもらし、更に近づく。 「ここの旦那さん、いつもイヤフォンしてたのよ。これは私の予想だけど、子どもの泣き声が嫌いでイヤフォンをつけていたんじゃないかって思ってるのよね」  怖がっている素振りは見せるものの、表情は隠しきれていない。完全に、誰かと話したくてウズウズしていたのだ。今までと明らかに目の輝きが違う。 「あと、ぬいぐるみって言ったわよね?」 「え、ええ」 「それ、うさぎのぬいぐるみじゃなかった?」 「そうですそうです!」  なぜか、俺まで小声になる。 「あー、やっぱり。それね、息子さんのよ」 「えっ」と、声を出したつもりだったが、餌をもらいに水面に顔を出した鯉のように、口がパカッと開いただけだった。  心臓を掴まれたように苦しくなる。  なんとなく、子どもの物だとは思っていたが……。 「しかもそのぬいぐるみ、奥さんの手作り」  奈々未の言うとおりだ。 「さっきの話に戻るけど、いつもイヤフォンをつけていたということは、子供の声だけじゃなく、大きな音が苦手だったんじゃないかと思うのよ」  仲里さんは、イヤホンがどうしても気になっているようだ。相当、イヤホン姿が異様だったのだろう。  大きな音が苦手だからと言って、家にいるときまでイヤホンをつけるなんて確かに、異常だ。  待てよ、大きな音……?  どこかで音の話をしたような気がする。会社か? それとも……。   「あっ! もしかしてあの時……」  引っ越し当日の記憶が蘇る。 「そう! 音に気をつけたほうがいいと思ってね。何かあって、また引っ越しされたら悲しいじゃない。せっかく来てくれたのに」  なるほど。そう言うことだったのか。  大きな音が苦手というのは、あながち間違いではないかもしれない。木津が大きな声で笑った時、おぞましい『あれ』が現れ、うるさいと囁かれたと言っていた。  うちは幸い、賑やかな家族ではないので今のところ助かっているが、里来がこの先騒いだ時、危険が迫らないよう、見守らなければならい。  事件の詳細を仲里さんには聞くことはできなかったが、これまで越してきた住人がこの家を出ていく決め手はやはり、不可解な現象が原因だったのだろうか。もしそうなら、俺たち家族も同じ道を辿っていることになる。これ以上、怖い思いはしたくないし、させたくもない。  腕時計に目をやると、予想より時間が進んでおり、始業時間が迫っていた。  慌ててお礼を述べ、車に乗り込み会社へ向かった。      
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