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すっかり遅くなってしまった。
残業になる場合は連絡すると言っていたが、次々と起こるトラブルに、昼休憩さえままならなかった。
二十時か。急いで帰ろう。
「ただいま」
いつもなら真っ先に走ってくる里来。今日は寝ているみたいだ。
リビングのドアに手をかけたとき、物音一つしないことに気がつく。テレビの音も何も聞こえない。もしかしたら、里来と一緒に寝てしまったのかもしれない。
「ただいま……」
小声で言いながら、ドアを開ける。
「あ……おかえりなさい」
奈々未は、静まり返るリビングで、ソファに寄りかかった状態で床に座っていた。
連絡を入れなかったことに怒っているのかかとも思ったが、どうやら違うようだ。こちらを振り返った奈々未の顔つきが、明らかにやつれている。
「どうした? 何かあったのか?」
不安を感じとり、鼓動がドクンと跳ねた。
「これ、見てくれる?」
よく見ると、テーブルの上に一枚の白い紙が置かれていた。恐らく、里来の描いた絵。今日から、おためし保育に行っているので、そこで書いたものなのだろう。
「里来が書いたのか?」
そう言いながら、奈々未の正面に座る。
裏返しになっているのか、今のところは真っ白な画用紙。絵を滑らすようにこちらに寄せ、奈々未の顔色を伺いながらひっくり返す。
不自然なまでにこちらを見ようとしない奈々未。
返した画用紙に視線を落とす。
「これ……」
絶句した。
そこに書かれていたのは、大人を怯えさせるには十分すぎる絵だった。
用紙の中心に俺と里来、奈々未と思われる三人が並んでいる。顔のパーツはなく、のっぺらぼう。
異様なのは、その背後に立つ、人の形をした三体。真っ黒に塗り潰され、俺たち家族と同化するかのようにぴったりとくっついている。
なんでこんなものを里来が……。
「これ、里来が書いたんだよな」
奈々未は体勢を変え、テーブルにうなだれるように、方ひじをつけ頭を支える。
「そうよ。迎えに行ったら、先生に呼び止められて、この絵の意味を聞かれたの。これは、どういう意味なのかって」
「意味って……」
「わかるわけないわよね。こんな絵見せられて、一番混乱してるのは私なんだから」
「それで先生は何か言ってたのか?」
「何か心に抱えるものがあるかもしれないから、気にかけていてくださいって」
両手で頭を抱え、深いため息をつく。
「里来には何か聞いてみたのか?」
「もちろん聞いたわよ。これはなんなのか」
「それで?」
奈々未は座り直し、
「この人たちいつもいるよって言ったのよ」
唇を震わせ、目を潤ませる。
声をかけたかったが、喉の奥が締め付けられ、言葉が何も出てこない。
「健太郎はこの絵、なんだと思う?」
奈々未は、答え合わせをしたいのだろう。
自分の考えていることと、俺が同じなのかどうか。
「ここに住んでた、家族だろうな……」
「やっぱり、そうよね……」
「一番の問題は、俺たちに見えないで里来にだけ見えてることだよ」
ハッとした顔で、「そうよね……えっ? でも、じゃ、里来が危ないってこと? そうなの? 健太郎! ねえ、そうなの?」
「奈々未! 落ち着け! 大丈夫だ。ほら、小さい子どもや動物は、幽霊とか見えるってよく言うだろ? それだよ。別に里来が危ないとかじゃないよ。実際、何も里来は怖がっていないだろ」
奈々未の両肩をがっしりと掴む。定まらない焦点に合わせるよう、何度も体を揺さぶり、こちらを向かせる。
「大丈夫だから。俺もついてるし、引っ越せば問題ないよ。家に問題があるんだから。俺たちには問題ないんだから」
「そ、そうよね。ごめんなさい、私……母親なのに……」
自身を落ち着かせようと、菜々美は目を閉じ、大きく深呼吸を繰り返す。
「母親だからだろ。子どもを持つ親なら誰でも一緒だよ。冷静になんてなれるはずない。自分の命より大切な里来を守りたいのは、俺も同じだから。二人で里来を守ろう」
菜々美は頷くと、強く目を閉じた。重なり合った長いまつげがみるみるうちに涙で濡れ、ゆっくりと俯いた。
そんな彼女を俺は抱きしめることしかできなかった。赤ん坊をあやすように、とんとんと背中を軽く叩く。
しばらく泣いたことで落ち着いたのか、「もう、大丈夫」と言い、俺から離れソファに座った。
「気が動転してて、ご飯作ってなかった。今から作るから待っててもらえる?」
「いいからいいから。ご飯あるだろ? お茶漬けで食べるから気にしなくていいよ。そんなに腹も減ってないしな」
「でもそれじゃ……」
「今日は早めに里来の隣で寝てやってくれ。その方が、奈々未も安心だろ」
「いいの? ありがとう。そうする」
「俺もすぐ行くから」
見えない相手に対抗する術はないが、今のところ、俺たちに何か仕掛けてきているわけではない。物が落ちていたり、写真にいたずらをしたりしている程度。
ただ、全てにおいて不気味さが漂い、薄気味悪い。今は様子見といわんばかりに、小出しにしているようにも思える。
こちらに牙を剥いた時、俺には何ができるのだろうか。
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