第一章 

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 すっかり遅くなってしまった。  残業になる場合は連絡すると言っていたが、次々と起こるトラブルに、昼休憩さえままならなかった。  二十時か。急いで帰ろう。 「ただいま」  いつもなら真っ先に走ってくる里来。今日は寝ているみたいだ。    リビングのドアに手をかけたとき、物音一つしないことに気がつく。テレビの音も何も聞こえない。もしかしたら、里来と一緒に寝てしまったのかもしれない。 「ただいま……」  小声で言いながら、ドアを開ける。 「あ……おかえりなさい」  奈々未は、静まり返るリビングで、ソファに寄りかかった状態で床に座っていた。  連絡を入れなかったことに怒っているのかかとも思ったが、どうやら違うようだ。こちらを振り返った奈々未の顔つきが、明らかにやつれている。 「どうした? 何かあったのか?」  不安を感じとり、鼓動がドクンと跳ねた。 「これ、見てくれる?」    よく見ると、テーブルの上に一枚の白い紙が置かれていた。恐らく、里来の描いた絵。今日から、おためし保育に行っているので、そこで書いたものなのだろう。 「里来が書いたのか?」  そう言いながら、奈々未の正面に座る。  裏返しになっているのか、今のところは真っ白な画用紙。絵を滑らすようにこちらに寄せ、奈々未の顔色を伺いながらひっくり返す。  不自然なまでにこちらを見ようとしない奈々未。  返した画用紙に視線を落とす。 「これ……」  絶句した。  そこに書かれていたのは、大人を怯えさせるには十分すぎる絵だった。  用紙の中心に俺と里来、奈々未と思われる三人が並んでいる。顔のパーツはなく、のっぺらぼう。  異様なのは、その背後に立つ、人の形をした三体。真っ黒に塗り潰され、俺たち家族と同化するかのようにぴったりとくっついている。  なんでこんなものを里来が……。 「これ、里来が書いたんだよな」  奈々未は体勢を変え、テーブルにうなだれるように、方ひじをつけ頭を支える。 「そうよ。迎えに行ったら、先生に呼び止められて、この絵の意味を聞かれたの。これは、どういう意味なのかって」 「意味って……」 「わかるわけないわよね。こんな絵見せられて、一番混乱してるのは私なんだから」 「それで先生は何か言ってたのか?」 「何か心に抱えるものがあるかもしれないから、気にかけていてくださいって」  両手で頭を抱え、深いため息をつく。  「里来には何か聞いてみたのか?」 「もちろん聞いたわよ。これはなんなのか」 「それで?」  奈々未は座り直し、 「この人たちいつもいるよって言ったのよ」  唇を震わせ、目を潤ませる。  声をかけたかったが、喉の奥が締め付けられ、言葉が何も出てこない。 「健太郎はこの絵、なんだと思う?」  奈々未は、答え合わせをしたいのだろう。  自分の考えていることと、俺が同じなのかどうか。 「ここに住んでた、家族だろうな……」 「やっぱり、そうよね……」 「一番の問題は、俺たちに見えないで里来にだけ見えてることだよ」  ハッとした顔で、「そうよね……えっ? でも、じゃ、里来が危ないってこと? そうなの? 健太郎! ねえ、そうなの?」 「奈々未! 落ち着け! 大丈夫だ。ほら、小さい子どもや動物は、幽霊とか見えるってよく言うだろ? それだよ。別に里来が危ないとかじゃないよ。実際、何も里来は怖がっていないだろ」  奈々未の両肩をがっしりと掴む。定まらない焦点に合わせるよう、何度も体を揺さぶり、こちらを向かせる。 「大丈夫だから。俺もついてるし、引っ越せば問題ないよ。家に問題があるんだから。俺たちには問題ないんだから」 「そ、そうよね。ごめんなさい、私……母親なのに……」  自身を落ち着かせようと、菜々美は目を閉じ、大きく深呼吸を繰り返す。 「母親だからだろ。子どもを持つ親なら誰でも一緒だよ。冷静になんてなれるはずない。自分の命より大切な里来を守りたいのは、俺も同じだから。二人で里来を守ろう」  菜々美は頷くと、強く目を閉じた。重なり合った長いまつげがみるみるうちに涙で濡れ、ゆっくりと俯いた。  そんな彼女を俺は抱きしめることしかできなかった。赤ん坊をあやすように、とんとんと背中を軽く叩く。    しばらく泣いたことで落ち着いたのか、「もう、大丈夫」と言い、俺から離れソファに座った。 「気が動転してて、ご飯作ってなかった。今から作るから待っててもらえる?」 「いいからいいから。ご飯あるだろ? お茶漬けで食べるから気にしなくていいよ。そんなに腹も減ってないしな」 「でもそれじゃ……」 「今日は早めに里来の隣で寝てやってくれ。その方が、奈々未も安心だろ」 「いいの? ありがとう。そうする」 「俺もすぐ行くから」  見えない相手に対抗する術はないが、今のところ、俺たちに何か仕掛けてきているわけではない。物が落ちていたり、写真にいたずらをしたりしている程度。  ただ、全てにおいて不気味さが漂い、薄気味悪い。今は様子見といわんばかりに、小出しにしているようにも思える。  こちらに牙を剥いた時、俺には何ができるのだろうか。       
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