第二章 

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第二章 

─10─  ようやく金曜日。  今週はタバコを吸う時間さえもままならないほどの激務だった。一週間でまだ二箱しか買っていないのだから、余程。健康にはいいことだが、戸田と新嶋にもほとんど会えておらず、あの一件からまともに話せていない。来週は落ち着きそうだし、一度、飯に誘ってみるのもいいかもしれない。    里来が保育園で描いてきた恐ろしい絵。  あの日以降、変わった様子はなく、平穏が続いている。    この一週間で、季節は冬となった。  スタートダッシュを決めることに成功した冬は、町一面、雪景色に変え、さぞ満足だろう。いよいよ、長く憂鬱な冬が始まる。 「ただいま」 「ととー! おかえりー!」  今日も愛くるしい里来のお出迎え。どんなに疲れていても、この瞬間だけは疲れが吹き飛ぶ。 「今日の保育園どうだった?」 「たのしかった! おそとでね、ゆきあそびしたの」 「そっかー。そりゃ楽しかったな」 「あとね、れんくんとおともだちになったんだよ!」 「すごいな! 里来はお友達たくさんいて偉いなー。せっかくたくさんお友達できたんだから、大切にしなきゃだめだぞ」    相当楽しかったのか、いつもよりおしゃべりが流暢だ。  抱きかかえ、そのままリビングへ。 「おかえりなさい」 「ただいま、奈々未」 「今、雪降ってた? 明日、少し荒れるみたいよ」 「そうなのか? 今は降ってないし月もはっきり見えたよ」 「じゃ、これから降るのね」  里来を膝に乗せ、一旦、ソファに腰掛ける。  テレビでは天気予報士が、しきりに明日の雪について注意喚起をしていた。 「今年、最初の荒れた天気になりそうです。無理な外出はお控えください」  明日が休みでよかった。  家でゆっくり過ごすことにしよう。今週は里来と一緒にいる時間が少なく、寂しい思いをさせていた。その分、奈々未にも負担をかけたことだろう。  よし、明日の昼ご飯は俺が担当しよう。唯一の得意料理、ラーメン。インスタントラーメンを俺に作らせたら右に出るものはいないと自負している。里来もラーメンが好きだし喜んでくれるだろう。  「よし、着替えてくるかな」  膝から降ろすと、里来は隣の部屋に走って行ってしまった。少し様子を見ていると、最近、夢中になっている絵本を引っ張り出し、自分専用の椅子に座って読みだした。   「着替えてきたらご飯にしましょ」 「うん。今、着替えてくる」  二階にある自分の部屋へ。  電気をつけ、鞄をベッドの上に放る。  床に投げ捨ててあった部屋着を拾い上げ、臭いをかぐ。 「あと一日なら着れるか」  本当ならこのままパジャマに着替え、布団にダイブしたい気分。それほど今週は辛かった。  仕方なく襟首に頭を通すと、鈍い痛みを額に感じた。 「そうだ。今日、頭ぶつけたんだった」  昼過ぎ。会社の洗濯機が故障し、見積もりをとるために現場へ見に行った際、柱の出っ張りに額をぶつけたのだ。  今の今まで痛みを感じなかったというのに、思い出した途端、じんじんと痛みだした。額を擦りなから、クローゼットの扉についている鏡の前に立つ。 「赤くなってるし、腫れてるな」  前髪を上げ、近づきよく見てみる。   「たんこぶなんて、子ども以来だな」と、ぼやいた時だった。開け放していた部屋のドアが、バタン! と勢いよく閉まった。ビクッと肩をすくめ後ろを振り向く。 「なんだよ、脅かすなよ……」  想像以上に驚いたのか、心臓が激しく胸を叩いていた。何をこんなにも動揺しているのやら。  上だけ着替え、下はパンツという格好が余計と滑稽に映る。自分の姿に呆れていると、奈々未の言いつけが頭に過る。 「物にも住所があるのよ」と、いつも口酸っぱく言われているのを思い出し、ベッドに投げ捨てられていた鞄をクローゼットの中へ。 「これでよし」と、クローゼットを指差す。  指差し呼称。思わず職場での癖が出た。  着替えも終え、部屋を出ようと体の向きを変えた時だった。一瞬、黒い影が視界に入る。  制御する間もなく、なんの気なしに後ろを振り返る。 ──……  長い髪の隙間から覗く、虚ろな目。    井戸の底を思わせるような、真っ暗な目。 ──目の前に、女が立っていた。  止まる呼吸。  硬直する体。  逸らせない視線。  少しでも気を抜けば、纏っている闇に引きずり込まれてしまう。 ──その時  「健太郎!!」  悲鳴混じりで叫ぶ、奈々未の声。  鎖が解けたように体が自由になる。   あの声、ただ事ではない。  一気に現実に引き戻される。  佇む女が気になったが、今はそれどころではない。  ドアを開け放つと、里来の泣き声が家中に響き渡っていた。 「里来!」  階段を滑るように降りる。  里来が火のついたように泣くなんて、あきらかに異常。  何かあったんだ。何かあったんだ。  女の姿が頭を過ぎる。  あいつか? あいつの仕業なのか? 「奈々未!」 「健太郎………」  部屋へ行くと、椅子に座ったままの里来を、奈々未が膝をつき抱きしめていた。    怖かった。  何が起こっているのかわからず、怖かった。里来に何かあったらと、恐ろしかった。  奈々未は里来を必死に守る。  俺は慄き、気づけば声もなく後退りしていた。  小さな命が危険にさらされ、ことの重大さに圧倒され、息ができない。 「健太郎!」  頬を叩くような、奈々未の声。  止まっていた思考が動き出し、ようやく駆け寄る。 「何があったんだ?」  奈々未は、里来を抱きしめながら前方を指差した。  その先には、あのぬいぐるみが……。 「どういうことなんだ……」 「あ、あのぬいぐるみ、寝室の箱に入れてあったのよ! あれ以来出してないのにどうして……どうして……」  すぐにピンときた。  女だ。やはり、あの女がやったんだ。   「とにかく、リビングに連れて行こう」    泣き止まない里来と震える奈々未を支える。  里来を抱いた奈々未をゆっくりソファに座らせる。  汗だくになりながら泣く里来の顔を覗き込むと、前髪は汗でびしょ濡れ。顔は真っ赤になり大粒の涙を流していた。   「かわいそうに……」  何度も何度も頭を撫で、涙を拭う。  しばらく二人で声を掛け続けると、ようやく落ち着きを取り戻してきた里来。  泣きすぎたせいか息が荒く、ひっくひっくと肩で息をしている。 「麦茶持ってくるよ」  立ち上がり二人に背を向けた途端、涙が込み上げてきた。  あんなに長い間、泣いたことなどいまだかつて一度もない。余程のことがあったのだ。  俺があの時、膝から降ろさず、ずっと一緒にいてやればよかった。額の痛みなど放っておいて、もっと早く里来の元へ戻っていれば……。  波のように後悔が次から次へと押し寄せ、足をすくわれそうだ。 「飲めるか?」  里来はこくりと頷き、小さな口でストローを咥える。激しく泣いたことで喉が渇いていたのか、ごくごくと勢いよく飲み干した。  俺が抱っこしている間に奈々未が着替えとタオルを持ってきた。汗をかいたので新しいパジャマに着替えさせ、タオルで頭を軽く拭く。 「里来、ご飯食べれそう?」  奈々未が問いかけると、「たべれる」とにこっと笑った。いつもの笑顔に、奈々未と俺は顔を見合わせ、ほっと胸を撫で下ろす。  すっかり冷めてしまった料理を温め直し、もう一度テーブルに並べる。  テレビ番組はなるべく明るい内容のものに。少しでも今は賑やかであってほしい。俺と奈々未も自然と声を張り、多めに会話する。里来にもたくさん話しかけ、気を紛らわせる。一秒でも早く、忌々しい出来事を脳内から消し去ってやりたい。  食事を終え、リビングでくつろいでいると、絵を描いていた里来が膝の上に乗ってきた。 「とと」 「うん?」 「さっきね……」  そういうと、俺に抱きつくように向きを変えた。 「大丈夫だ」と優しく抱きしめる。  恐らく、何があったのか、里来なりに話そうとしているのだろう。しかし、恐怖と混乱でうまく言葉にできないのかもしれない。 「無理に話さなくていいんだぞ」 「──りくね、こわかった」 「うん……怖かったな」 「おんなのひとが、りくのてをひっぱったの」  やっぱり、あいつだ。あの女だ。  怒りが込み上げ、体が熱くなる。 「これ……」  里来は俺に見えるよう、むっちりとした腕を高く上げる。その手には赤く、くっきりと手跡が残っていた。 「里来……」  強く抱きしめる。  突然現れた女に、跡が残るほど強く捕まれ、どれだけ怖かったか。どれだけ心細かったか。それなのに、何があったのか説明しようと、拙い言葉で一生懸命、話してくれた。  俺はあの時、すぐに抱きしめることができなかった。足がすくみ、恐怖に負けたのだ。  幽霊にではない。  最愛の息子を、失うかもしれかいという恐怖に、負けたのだ。 「ごめんな、ごめんな、里来」  このまま抱きしめていれば、この家に棲みつく怨霊から、守ることができるのだろうか。あの、恐ろしい出来事を忘れさせてやることはできるのだろうか。  ジリジリと距離を縮め、とうとう家族の前に姿を現した怨霊。  今までは間接的な恐怖で、俺たち家族には直接手を出して来なかった。だが、いよいよ攻撃を仕掛けてきた。それも、一番小さく、無力な里来に。  俺たちが何をしたというんだ。ただ住んでいるだけじゃないか。  怨霊の目的はいったい……。  入居する家族を次々に排除し、まるで、自分たちのマイホームに足を踏み入れさせないと言わんばかりの行為。もし本当にそうだとするなら、俺たちがこの家を手放すまで、攻撃の手を緩めるどころか、この先、もっと恐ろしいこと仕掛けてくるのかもしれない。      
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