第一章 

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「健太郎、ちょっと来て」  奈々未が、子ども部屋から呼んでいる。 「どうした?」と、寝室からすぐ隣の子ども部屋へ移動する。 「ねえ、これなんだけど」  奈々未が見せてきたのは、薄汚れた小さなうさぎのぬいぐるみだった。握りつぶされたように、少し変形している。 「あの隅っこに落ちてたのよ。前に住んでた人の忘れ物かな?」  奈々未が硬い表情で、壁際を指差す。 「ああ、どうだろ。部屋の点検だってしてるだろうしな」 「そうよね……。あとこれ、手作りだと思うの」 「手作り?」 「ここ見てよ。既製品にしては少し縫い目が荒いじゃない?」 「言われてみればそうだな。じゃ、前住んでた人も、子どもがいて、ここが子ども部屋だったのかもな」 「そうかも。捨てないで、しばらく箱に入れておくわね」    奈々未は腑に落ちない表情で、自身のエプロンのポケットに、ぬいぐるみを押し込んだ。 「そうだな。もしかしたら、お気に入りのぬいぐるみで、今頃、探してるかもしれないしな」  ぬいぐるみはしばらくしたあと、処分すればいいだろう。   「健太郎、ちょっとお酒飲まない?」 「えっ? あるのか?」 「さっきコンビニに行った時、買ってきたの」と奈々未は自慢げな顔をする。 「気が利くな、奈々未は」 「でしょ。褒めて伸びるタイプだからもっと褒めて褒めて」 「はいはい。電気消すぞ」  ご機嫌そうな声で、奈々未は階段を下りていった。里来もぐっすり寝ていることだし、少しくらいはいいだろう。  部屋の電気を消し、リビングへ向かう。  段ボールだらけのリビング。足で荷物をどかし、床にあぐらをかく。 「足でやらないで。里来が真似するから」  自覚はないが、俺はだらしないらしい。いつもこのように叱られている。 「氷できてないから買ってきたんだけど、グラスに入らないわ。アイスピックあったっけ?」 「俺やるよ、危ないから」  アイスピックは、さっき俺が片付けたので場所は覚えている。  引き出しから取り出したアイスピックを右手でしっかり持ち、氷に突き刺した。 「痛っ!」  思わずアイスピックから手が離れる。  今までに感じたことのない頭痛が襲った。    アイスピックを自分のこめかみに刺したような、鋭い痛み。 「大丈夫? 手に刺したの?」 「いや、一瞬だけど、すごい頭痛が……」 「えっ!? 大丈夫? 今日はもう飲むのやめたら?」  奈々未は、優しく肩に手を置き、俺の顔を覗き込む。 「一瞬だったし、もう治ったから大丈夫。せっかくだし飲もう。引っ越し祝いとして」 「そう? じゃ、一本だけ飲んだら私たちも寝ましょ。健太郎は明日からさっそく仕事なんだし」 「そうだな。初日から遅刻なんて洒落にならんからな」    波打つように痛みの余韻がこめかみに残り、ぴくぴくと痙攣する。  この一ヶ月、引っ越しの準備と仕事の引き継ぎで忙しかった。ようやくこの日を迎え、少し気が抜けたのかも知れない。  子どもができてからは、なかなか二人の時間を作ることかできなくなった。それでもこうして、隙間の時間で他愛もない話をしたり、奈々未の愚痴を聞いたりと、夫婦の時間を大切にしている。俺たちは里来の親ではあるが、夫婦でもあるのだ。昔のように恋人同士とまではいかなくても、俺は変わらず奈々未を愛している。高校生の頃に感じた、あの胸の高鳴りを忘れないよう、大事にしたい。    この町でどんな生活が待っているかわからないが、二人がいれば俺はどんな事があっても乗り越えていける。
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